133〗MSV Arena / デュイスブルグ

ベルリン出身でU21代表まではドイツ。’12年からA代表はチェニジアを選択している。’02年の日韓大会以来世界の檜舞台で日本代表と再び火花を散らすチェニジア代表。アフリカ勢でもフィジカルではなく組織力に優れたナショナルチ-ム。記憶に残るス-パ-プレーヤ-は少ないがこのベン=ハティラは例外。
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2015年3月14日ヘルタ・ベルリン対シャルケは2-2の引き分け。この試合で、21分ゴールキーパーのティモン・ヴェレンロイターがキャッチできずこぼれたボールに反応したベン=ハティラが押し込んでヘルタが先制。その直後、ベン=ハティラはベンチに駆け寄ると、トルガ・チゲルチからスパイダーマンの仮面を受け取り被ってイエローカードを提示されている。この違反行為のゴールセレブレーションパフォーマンスは白血病と闘う八歳の友人に捧げた。試合後「彼が最初の化学療法を乗り越えたら、僕もゴールを決めてスパイダーマンのマスクを被ると約束しました。」と
コメントしたから涙腺が崩壊した。写真は2019年ホンヴェードブダペストでのプレーを撮影した。そういえばシャルケ戦後咎めることなく、その行為を称賛したパル・ダルダイ:Dárdai Pál【1976年3月16日生】監督はハンガリー人だった。

華やかな中心街と北部の陽かげりで感じた都市内格差

中華による政策。船運と鉄道の連携が可能なこの都市は、習近平【1953年6月15日生】総書記による《一帯一路 Belt and Road》= 現代版シルクロードの終点となった。Huaweiがインフラを支援したこともあり、青いバナナのほぼ中央に位置する内陸港に再び陽が昇る。その中国の貨物輸送量が上向きなのも当然。EU&アメリカ合衆国に日本も含め先進各国が断絶するなか、中国だけは中立の立場で、ロシア領を堂々と走り抜けているのだから。経済だけでなく、文化芸術面も2010年の欧州文化首都に選ばれ活性の兆し。かつての工場を文化施設として再生されると、産業遺産の多くが、時代変化と発展の象徴と持て囃され、博物館の中にとどまらずクリエイティブ産業や商品やサービスを生み出しデュイスブルクは脚光を浴びている。
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23年の訪問時泊まった市内北部の写真で締める。’80年代から外国人移民が増えたらしく、トルコ系の目鼻立ちが目をひく。日本では執拗いほど「失われた三十年」のフレ-ズを耳にするが、この街にも失われた二十年が息吹く。カイザーヴィルヘルム通り周辺から中心街までの道のりは、およそ十キロ。ビジネスクラスに乗ることのない筆者にとって、薄汚れた安宿のベッドもタクシーを利用しないのも日常。靴底を刷り減らしながら眺めた街並からは過去に落ちた暗い影を感じずにはいられない。’08年訪問時に駅周辺を散策した時の印象とはかけ離れたリアルな人々の生活。何もデュイスブルクに限ったことではない。観光客の目に触れさせるのは取り繕った良い部分のみ。
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名ゴ-ルキーパ-の訃報に哀悼の意を表す

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ひとつき経ってしまったがゲオルク・コッホ:Georg Koch【1972年2月3日生-2026年3月4日没】が末期膵臓がんのため五十四歳で死去したとの訃報。2004年から三シ-ズンをMSVで九十九試合に出場した守護神の試合で印象に残るのは’06年4月の
ハンブルガーSV戦。FIFAワ-ルドカップドイツ大会は目前。
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