133〗MSV Arena / デュイスブルグ

目次

四月のストライキと謎のデュイスブルク空港

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四月の風物詩、恒例のルフトハンザ航空職員によるストライキは十三日頃から断続的に続いている。ドイツ国内空港を発着する便を対象に実施されており、当然で多くの便が欠航・遅延している。日本も無関係というわけではなくパイロット組合の次は客室乗務員組合の番。十五日の羽田着、翌十六日は羽田発着と関空着の三便が欠航に。何れもミュンヘンとの路線。
確か六年前ならば全日空がデュッセルドルフに成田からの直行便を飛ばしていた。そのデュッセルドルフ国際空港は笑えるエピソードがある。十六ある連邦州の中でもノルトライン=ヴェストファーレン州は、人口ならばNo.1。百万人を超えるケルンを筆頭に州都デュッセルドルフ。フットボール狂が集うドルトムントにエッセン、五番目のデュイスブルクでさえ五十万都市。
2008年のドイツ訪問だったろか、南のケルンと東のドルトムントのほぼ中央が便利だろうとデュイスブルクに宿を手配した。次の移動先はミラノだったが空港まで近くて不自由はなかった。
それから十年程月日が経つと頭の中で、あの時の空港はデュイスブルク空港に改竄されていた。ドイツで友人と話していたら「デュイスブルクに空港はないよ。それはデュッセルドルフ空港だよ。デュッセルの北側だから両都市の間にあるよ。」と言われたから、鵜呑みにして自身の記憶のいい加減さに溜め息。更に六年が過ぎ’23年に市内からデュッセルドルフ国際空港に到着する。建物の外観を目にして「えらく立派になったなあ」と感心し、赤ん坊も十六年もすれば女子高校生に成長すると思いながら、施設内に入って気づく。「この空港来るのはじめて。」あの時のデュイスブルク空港は何処?一瞬頭がパニックになるが冷静に考えれば利用者にはわかるライアンエアあるある。デュイスブルクの北西四十八キロ、デュッセルドルフから八十キロの所にあったのはヴェーツェ空港。記憶をしっかり紐解けばライアン以外の航空会社カウンターは視界に無かった気もする。実は知人と話した’18年、ライアンエアはヴェーツェだけでなくベルリン(テーゲル)とデュッセルドルフの両空港へ新規参入しており六月から運航を開始したばかり。ちなみに友人はビジネスクラスしか利用しないからライアンのライの字も知らないろう。
しかしコスト高を理由にデュッセルドルフ空港発着の便を閉鎖してしまう。ライアンエアのコマーシャルディレクター、ジェイソン・マクギネス氏は、雇用喪失には遺憾であるとしながらも、
「ドイツの航空税増税と、九十億ユーロの公的資金投入によるルフトハンザ航空の独占状態により、同社のセールスポイントである低運賃の提供も自社の収益を上げることもできない」と主張しお怒りモ-ド。既ににシュトゥットガルト便も止めると発表しており、従業員の将来の待遇をめぐって労働争議等も発生していた。
気になったのでラインエアのサイトを今開いて見るDusseldorf (NRN) と表記されていて苦笑した。空港名を簡略化したスリーレターコ-ドでデュッセルドルフ空港はDUS、ヴェーツェ空港はNRNと表示される。 欧州のキャピタルシティクラスであればほぼこのスリーレターが何処の都市かは判断できる。80年代旅行専門学校の授業で頭に叩きこまれており、若い時に覚えたものは忘れない。
問題は航空会社を略したツ-レターコ-ド。新規が参入しては倒産する航空業界だから知らないコ-ドが山ほどある。
その80年代後半で、記憶に残るのは青いバナナ。加熱調理用のバナナではない。正確には’89年にフランスの地理学者ロジェ・ブルネが提唱した英南部から伊北部にかけてライン川に沿った欧州の中核となる人口密集した重工業産業地域を指す地理・経済用語のほう。欧州の経済競争力を牽引するエリアは時計の1時から4時を示しているのだが農業国フランスでは花の都巴里も外れ、オ-スリトアも僅かに西側。イタリアはロ-マ近郊も含まれない。これを見るとル-ル地方からフランクフルト経由でシュツットガルトまで欧州の重工業をいかにドイツが牽引しているのかが理解できた。当時は。二十代前半の若造にはピンとこなかったが、
欧州を全体で見る視点と国境だけではなく地域で分けて見る視点が欧州では重要だと青いバナナは教えてくれていた。
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日本人初のブンデスリーガーがデビューしたのは陽かげりの街

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ルール地方の入り口、ライン川とルール川が交わるのがドイツのデュイスブルク。現在もドイツ鉄鋼産業の中心地で造船やコークス製造など工業都市であり、また観光都市、サステイナビリティシティの顔も併せ持つ。
1977年10月22日。旧スタジアムで行われた1FCケルン戦。奥寺康彦:Yausuhiko Okudera【1952年3月12日生】氏が日本人として初めて歴史に足跡を刻んだ頃は、石炭・鉄鋼産業が衰退し失業率の高さに頭を痛めていた。
1975年にペドロ&カプリシャスが発表した楽曲に《陽かげりの街》がある。当時は何とも感じなかったが今、斜陽とはまた違った意味合いを含み哀愁を感じさせる言葉の響きがえらく気にいっている。
当時の陽かげりの街からデュイスブルクの陽のあたる街への復活は二十一世紀まで待たなければならなかった。創設半世紀を迎えるにあたり欧州評議会は’99年「欧州の遺産」キャンペーンを加盟各国に呼び掛けることに。ノルトライン=ヴェストファーレン州政府からの要請を受け協会が進めたのは各地域とのネット-ワ-クを構築して産業遺産を観光ブランド化するアイディア。青いバナナからは英蘭、そしてベルギーの三ヶ国が賛同を示し2001年12月のデュイスブルクでの会議を経て欧州評議会に認可された。
第話は、MSVデュースブルクの本拠地MSVアレーナ。スタジアムが素晴らしいだけに三部リーグから抜け出せない現状はファン・サポーターにとって歯痒い。

イマーヌエル=カント公園では、ボールを蹴る少年達の輪に加えてもらった。右から二人目の少年はMSVのレプリカ姿。高校生年代だけでなく、男女入り混じってボールを蹴ってはしゃぐ中学生も。課外授業なのか教員の言葉に耳を傾ける小学生達の振る舞いからも、教育水準は高さの一端が垣間見れる。これは08年の訪問時に撮影したもの。
この街のシンボルは1993年に完成したファウンテン・ライフセイバー(上写真)。
スイスの巨匠ジャン・ティンゲリー:Jean Tinguely【1925年5月22日-1991年8月30】】作の黒い立体に、ニキ・ド・サンファル:Niki de Saint Phalle1【1930年10月29日-2002年5月21日】の色鮮やかな作品を乗せた夫婦合作。


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あの日あの時は◼️2009年5月4日ブンデスリーガ二部30節MSVデュイスブルク対SpVggグロイター・フュルト。スコアレスで前半終了。後半六分ホ-ムチ-ムにフリーキックの好機。キッカーはこの年二月にハンブルガーSVから貸し出されていたアニス・ベン=ハティラ:Änis Ben-Hatira【1988年7月18日生】。前年までドイツU19代表でプレーした若武者が蹴ったボールは見事ネットに突き刺さり、その後一点を追加したデュイスブルクの勝利。ベン=ハティラにとってMSVアレーナでの初得点。シ-ズン終了後ハンブルクに戻り、UEFAヨーロッパリーグ予選三回戦のランダースFC戦を経験したものの八月末、デュイスブルクからのラブコ-ルに応えベン=ハティラは再びMSVデュイスブルクに期限付きの移籍を果たす。ベルリン出身でU21代表まではドイツ。’12年からA代表はチェニジアを選択している。

02年の日韓大会以来世界の檜舞台で日本代表と再び火花を散らすチェニジア代表。アフリカ勢でもフィジカルではなく組織力に優れたナショナルチ-ム。記憶に残るス-パ-プレーヤ-は少ないがこのベン=ハティラは例外。
2015年3月14日ヘルタ・ベルリン対シャルケは2-2の引き分け。この試合で、21分ゴールキーパーのティモン・ヴェレンロイターがキャッチできずこぼれたボールに反応したベン=ハティラが押し込んでヘルタが先制。その直後、ベン=ハティラはベンチに駆け寄ると、トルガ・チゲルチからスパイダーマンの仮面を受け取り被ってイエローカードを提示されている。この違反行為のゴールセレブレーションパフォーマンスは白血病と闘う八歳の友人に捧げた。試合後「彼が最初の化学療法を乗り越えたら、僕もゴールを決めてスパイダーマンのマスクを被ると約束しました。」と
コメントしたから涙腺が崩壊した。写真は2019年ホンヴェードブダペストでのプレーを撮影した。そういえばシャルケ戦後咎めることなく、その行為を称賛したパル・ダルダイ:Dárdai Pál【1976年3月16日生】監督はハンガリー人だった。

華やかな中心街と北部の陽かげりで感じた都市内格差

中華による政策。船運と鉄道の連携が可能なこの都市は、習近平【1953年6月15日生】総書記による《一帯一路 Belt and Road》= 現代版シルクロードの終点となった。Huaweiがインフラを支援したこともあり、青いバナナのほぼ中央に位置する内陸港に再び陽が昇る。その中国の貨物輸送量が上向きなのも当然。EU&アメリカ合衆国に日本も含め先進各国が断絶するなか、中国だけは中立の立場で、ロシア領を堂々と走り抜けているのだから。経済だけでなく、文化芸術面も2010年の欧州文化首都に選ばれ活性の兆し。かつての工場を文化施設として再生されると、産業遺産の多くが、時代変化と発展の象徴と持て囃され、博物館の中にとどまらずクリエイティブ産業や商品やサービスを生み出しデュイスブルクは脚光を浴びている。
23年の訪問時泊まった市内北部の写真で締める。’80年代から外国人移民が増えたらしく、トルコ系の目鼻立ちが目をひく。日本では執拗いほど「失われた三十年」のフレ-ズを耳にするが、この街にも失われた二十年が息吹く。カイザーヴィルヘルム通り周辺から中心街までの道のりは、およそ十キロ。ビジネスクラスに乗ることのない筆者にとって、薄汚れた安宿のベッドもタクシーを利用しないのも日常。靴底を刷り減らしながら眺めた街並からは過去に落ちた暗い影を感じずにはいられない。’08年訪問時に駅周辺を散策した時の印象とはかけ離れたリアルな人々の生活。何もデュイスブルクに限ったことではない。観光客の目に触れさせるのは取り繕った良い部分のみ。
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名ゴ-ルキーパ-の訃報に哀悼の意を表す

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ひとつき経ってしまったがゲオルク・コッホ:Georg Koch【1972年2月3日生-2026年3月4日没】が末期膵臓がんのため五十四歳で死去したとの訃報。2004年から三シ-ズンをMSVで九十九試合に出場した守護神の試合で印象に残るのは’06年4月の
ハンブルガーSV戦。FIFAワ-ルドカップドイツ大会は目前。
リーグ・アンのFCメッツから年明けに加入した安貞桓:Ahn Jung-Hwan【1976年1月27日生】と高原直泰:Naohiro Takaharaの元Jリ-ガ-対決が期待された試合。安は途中出場したものの高原の出番はなし。しかしコフのフットボール人生のハイライトはやはり、この試合。2007年UEFAカップ予選一回戦2ndレグ。会場はアヤクシ-トの聖地アムステルダムアレナ(現ヨハンクライフアレナ)。ルカ・モドリッチ:Luka Modrić【1985年9月9日生】のPKで追いつき延長戦へ。ディナモ・ザグレブに二点を奪われても取り返しすアヤックスの鬼気迫る執念。しかし無情のタイムアップで結果はアウェーゴ-ル差によりホ-ムチ-ムが敗退。初戦の一失点からこの日は九十分間は無失点で、オランダ最高の攻撃陣に耐え抜いた。勝利への多大なる貢献に敬意と、謹んで哀悼の意を表す。