94〗Štadión pod Dubňom / ジリナ

スクリ-ンに甦るスロバキアの英雄 監督はチェコの巨匠

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1935年制作された映画『ヤノシーク』のメガホンを握ったのはチェコの巨匠マルティン·フリッチ:Martin Frič【1902年3月29日生-1968年8月26日没】監督。第四回ヴェネツィア国際映画祭にて上映されると大きな反響を巻き起こした。'36年だけでも、約一億人の観客動員が推定されており、1980年までに世界32カ国で上映されている。
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十世紀マジャール人が侵略し北ハンガリ-と呼ばれた頃からスラブ系民族の暮らしをハンガリ-文化が色濃く染めていったスロバキア。第一次大戦による帝国崩壊までは、千年近くハンガリー王国支配下にあったから、民族意識や言語の使用を制限され、文化面での発展か遅れたのは否めない。第二次大戦中は、名前だけスロバキア共和国を名乗るも実質はナチス·ドイツの傀儡国。この国でもユダヤ人が迫害されている。戦後は、チェコスロバキアとなりソビエト連邦の衛生国。共産党による一党独裁体制が敷かれると、言論統制をはじめ自由な政治活動は制限された。ヤノシーク伝説はスロバキア人は愛国心を高め、存亡の危機に瀕するたびに、国民を奮い立たせた。具体的には1848年リュドヴィート·シュトゥール:Ľudovít Štúr【1815年10月28日生-1856年1月12日没】を中心とした義勇兵によるコシツェやプレショフの占拠。
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スロバキア蔑視でノヴォトニー失脚 時代は人間の顔をした社会主義へ

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1944年夏から秋にかけての反ナチス派によるスロバキア国民蜂起、そしてブラハの春は1968年8月のワルシャワ条約機構軍による占領で幕を閉じるが、発端となったのは’57年アントニーン·ノヴォトニー:Antonín Novotný【1904年12月10日生-1975年1月28日没】のチェコスロバキア大統領就任。偏った共産主義者で'60年には共和国を社会主義共和国に改称してしまう。低迷する経済への不満と言論の自由を求め民主化運動に火がつきノヴォトニーは辞任。後任の第一書記長アレクサンデル·ドゥプチェク:Alexander Dubček【1921年11月27日生-1992年11月7日没】が実施した自由化政策がソ連の逆鱗に触れてしまい、ソ連プラス三ヶ国の軍隊に占領されてしまう流れ。ドゥプチェクは、トレンチ-ン地方の小さな村ウフロヴェツで生まれたスロバキア人。偶然にもハンガリー王国からの独立を掲げ武装蜂起したシュトゥールもこの村だからスロバキアの歴史を語る上で『ONE PIECE』のフ-シャ村同様に侮れない。簡略した文章にするとまるでソ連崇拝ベッタリのように誤解されてしまうが、ソ連陸軍をチェコスロバキア国内に配備する要求には一貫して拒否したノヴォトニ-。失脚に追い込まれた理由は彼のスロバキア蔑視。プラハ中央集権を進めスロバキアの自治を制限し猛烈な反感を買った。
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ヤノシークの伝説はその後チェコ、ポーランド、モラヴィア(現在のチェコ東部)、の近隣諸国にまで浸透しているから興味深い。ヤノシークはジリナ地方のテルホヴァー村の出身。現在ストークシティでプレーするスロバキア代表ロベルト·ボジェニーク:Róbert Boženík【1999年11月18日生】もこの村で生まれている。
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