121〗Stade de Gerland /リヨン

巨匠ガルニエが手掛けた芸術的スタジアムをつくったのは誰

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第121話はスタッド·ドゥ·ジェルラン。上写真の入館証にはStade municipale de Gerlandと記載されているからこちらが正式名称。つまりリヨン市が所有する市立のスタジアム。1998年6月26日に日本代表とジャマイカ代表が対戦したが第一次岡田JAPANは三連敗を喫しドゴール空港を後にした。イタリアでトニー·ガルニエ:Tony Garnier【1869年8月13日生-1948年1月19日没】ローマ大賞を受賞したのは1899年。
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上の写真はローマのスペイン広場。側にあるヴィッラ·メディチ:Villa Mediciは現在もフランスアカデミーとして機能しているからややこしい。支給された賞金でヴィラ·メディチで四年間古典建築を学び「産業都市」構想で名を馳せた都市景観デザインのパイオニア。1904年以降は生まれ故郷でもあるローヌ県リヨン市で活動して生涯の幕を閉じる。
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ドイツ人捕虜がこさえたフランスのスタジアム ドイツ人捕虜と初の国際都試合をした日本

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ノ-トルダム寺院やモン·サン·ミッシェルよりもフランスで見たかった建物が、彼の代表作品のひとつでもあるスタッド·ドゥ·ジェルラン。旧ジェルランの着工は1913年。直後の第一次大戦勃発で当然工事は中断せざるを得ない状況に。しかし六年後に再開できたのは、ドイツ人捕虜の存在があってこそ。1919年当時フランス軍により捕えられた後、本国で抑留されていたドイツ人は数は約三十九万人。最前線に働き盛りの男性が出兵する一方、日常の生活にも働き手は必要なわけで、フランス陸軍省は管轄する各地の公益事業に捕虜を動員する。人手不足で大助かり、元来勤勉なゲルマン民族だから危険で過酷な環境での労働を強いるより、大切に扱ったほうが良いにきまってる。今になって歴史を振り返るならば一次対戦は、銃弾が飛び交う戦場よりも捕虜になるほうが、非国民とよばれようが良いにきまっている。ちなみ休戦を迎えると復員兵が労働市場に復帰するので、今度は競合を避けるため捕虜労働力を調整することに。被害が甚大な仏北東部に送られ、なかなかドイツ捕虜は祖国に帰してもらえなかった。ジェルランは、1967年に歴史的記念物として認定登録される。

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