Warning: count(): Parameter must be an array or an object that implements Countable in /home/orfool/soccerlture.com/public_html/wp/wp-includes/post-template.php on line 293

Warning: count(): Parameter must be an array or an object that implements Countable in /home/orfool/soccerlture.com/public_html/wp/wp-includes/post-template.php on line 294
no-image

「王者」サンフレッチェ広島の歴史〜ヴェンゲル、オシム級の名将が植え付けた広島サッカーの原型

 そんな魅力的なサッカーのコンセプトを掲げたのが2001年。オシムと同じ肩書きを持つロシアの知将は、韓国Kリーグの富川SK(現・済州ユナイテッド)でその後は日本のJリーグのセレッソ大阪やサガン鳥栖でも選手や監督として大活躍するMF尹晶煥(ユン・ジョンファン)を軸にした、中盤を支配する軽快なパスサッカーを披露していた。御存知のように中盤省略の“キック&ラッシュ”による所謂「縦ポンサッカー」が主流の韓国にあって、ヴァレリーのチームのパスサッカーは、イングランド・プレミアリーグに置けるアーセナルのような存在だった。

 ヴァレリー監督が就任したサンフレッチェにはMF森崎和幸とDF駒野友一という下部組織出身選手がレギュラーに抜擢され、高卒ルーキーのDFトゥーリオ(後の田中マルクス闘莉王)も主力格としてプレー。さらにヴァレリー監督自らが引き連れて来たロシア人DFオレグ・パシニンが夏に加入して後方からはさらにビルドアップが安定。もともと久保達彦や大木勉、スティーブ・コリカ、藤本主税など攻撃陣にタレントが揃っていた中で、後方から丁寧にパスを繋ぐスタイルが定着し、流動的な攻撃サッカーが完成型を見せた2001年の第2ステージは3位へと大躍進した。

 下記掲載の表でも明らかなように、Jリーグ創設2年目のステージ優勝以来の好成績はクラブ史に残る転換点となった。もちろん、その背景には前任のエディ・トムソン監督が現実的なチーム作りによって苦しい経営状態のクラブをJ1リーグでも中位に安定させた上で、クラブとして下部組織の充実に取り組んだ(当コラム前項)「紫の冬眠」時代があったからだ。

そして、次回からは激動のサンフレッチェの歴史をお伝えしたいと思います。