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「王者」サンフレッチェ広島の歴史〜ヴェンゲル、オシム級の名将が植え付けた広島サッカーの原型

ヴェンゲル、オシムの間に降臨した名将

 日本サッカー界の発展に寄与した外国人監督として、Jリーグ初期の段階では1995年に名古屋グランパスエイト(当時)にやって来たアーセン・ヴェンゲル、そして2003年にジェフユナイテッド千葉にやって来たイビチャ・オシムという世界的にも名将と称される2人の名前が上がるはず。

 ヴェンゲルはフランス1部リーグのASモナコで国内リーグ1度と国内カップ2度のタイトルを獲得。名古屋を退任後はイングランド・プレミアリーグの名門アーセナルで指揮を執り、今季で20年目を迎える超長期政権を継続している。

 オシムも1990年のイタリアW杯での旧ユーゴスラビア代表監督としてのベスト8進出を筆頭に、オーストリア1部リーグのシュトルム・グラームで予算規模に乏しいクラブを国内タイトル独占、欧州チャンピオンズリーグ出場などの黄金時代を築いた。Jリーグでも「オリジナル10」の一員ながら低迷し続ける弱小倶楽部だった千葉を率いて、毎年のようにリーグ戦の優勝争いに絡み続けた。最終的にリーグ戦でのタイトル獲得はならなかったが、2005年にはクラブ史上初タイトルとなるJリーグヤマザキナビスコカップを制覇。翌年には自身が日本代表監督へ抜擢され、息子のアマル・オシム氏が引き継いだ千葉が同大会を連覇した。それも毎年のように日本代表に招集されるまでに成長した主力選手が抜けていく中でだ。

 そして、彼等はタイトルの獲得以上に攻撃的なチーム作りと若手選手の発掘や育成手腕に長けた指導者でもあり、結果以上に日本サッカー界に大きな影響を与えた稀有な監督でもある。当時の名古屋や千葉から日本代表に選出される選手が急増したのはその証拠とも言える。

 そのヴェンゲルとオシムの間にもう1人、同じような実績を誇る名将が日本のJリーグにいた。サンフレッチェ広島に。

 タイトルから想像すると、それは“広島サッカー”を構築したミハイロ・ぺトロヴィッチ(現・浦和レッズ監督)のように思われる方もいるだろうが、彼ではない。

ヴァレリーが植えつけた”広島サッカーの原型”

 その男はオシムが旧・ユーゴスラビアを率いた1990年のイタリアW杯にも参戦し、“不屈のライオン”カメルーンを率いていた。開幕戦では前回王者のアルゼンチンに対して2人の退場者を出しながら勝利したカメルーンは、ルーマニアやコロンビア相手にも同大会で勝利し、アフリカ史上初のベスト8進出へ導いた実績を誇る。さらに、韓国のKリーグでも魅力的なサッカーを披露していた事で、アジアサッカーにも精通していた。

 ロシアの智将、ヴァレリー・二コポリシ。たった1年だけの指揮であったものの、後の“広島サッカーの原型”を作ったのは、2001年シーズンに監督を務めた彼だったと言える。

 当時のサンフレッチェには優秀な下部組織が出来上がりつつある状況が整備された事や、財政難のトップチームの補強は下部組織からの昇格もメインテーマになって来ていた。すると、トップチームから下部組織までを一貫指導する明確なサッカーのコンセプトが必要になった。

 現在はクラブの代表取締役社長に就いている織田秀和氏(当時は強化スカウト→強化部長)が掲げたのが「ジュビロ磐田のようなパスサッカー」だった。2002年には史上初の両ステージ制覇による完全優勝を成し遂げる当時のジュビロのサッカーは、MF陣に全て日本代表選手が勢揃いしていた。司令塔の名波浩のイニシャルを冠した”N-BOX”と呼ばれる魔法陣システムの中で、緩急自在のパスワークとプレッシングの効率化により試合の主導権を握って能動的なサッカーを体現していたのだ。