15〗Stadio Nea Smyrnī / ネアスミルニ

オスマン帝国末期はギリシャ人やユダヤ人など西欧資本が導入されており、1893年にイズミルと現首都のアンカラを結ぶ鉄道はドイツ資本によって開通されている。チュルク系が八割を占める今のトルコとは比較にならない程の《多民族国家》を形成していたオスマンには、かなり多くのキリスト教徒も暮らしていた。結局ケマル率いるトルコ国民軍が反撃に転じ’22年にはイズミルを奪還されてしまうがこの間三年と短いながらも、東ローマ帝国以来現ギリシャ側にイズミルのシーソーが傾いている。
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1913年から22年までの間、数十万人にも及ぶ旧オスマン在住のギリシャ人が民族浄化の名のもとに虐殺された惨劇については書くことすら気が咎める。生存者の大半はギリシャへ、東部在住者はロシアへ難民として逃げ出した。終戦語トルコ領内のギリシャ正教徒とギリシャ領内のイスラム教徒を交換。繰り返しになるがネア·スミルニで暮らし始め新たな一歩を踏み出せたのは、ほんの僅かな人々だった。1933年の地域人口は六千五百人。’40年になると一万五千人に。そして二次大戦終戦後にはようやく自治体として認められる新しいスミルニ。街の発展の歴史イコールフットボールクラブの歴史が欧州ではごく普通。クラブの会長が生き残ったアスリートを探し出し、クラブ再興へと漕ぎ着けた。とはいっても肝心の施設がない。アテネのパナシナイコスタジアム内の小さな部屋を間借りして事務所に。1923年、パニオニオスはのスポーツクラブ十団体に参加を呼びかけ競技会を復活させた。’37年11月、理事会はネア·スミルニへとクラブ移転を決断する。スタジアムの着工は翌’38年、一年後に完成した。その歴史を振り返りながらスタンドを眺めると胸が重く締め付けられた。
悠久の時を経て多くの血が入り雑じり、また多くの血が流され、心が枯渇しても逞しく生き延びた古代ギリシア人の末裔たち。
上写真はネア·スミルナからアテネに戻るトラム。青い空を見上げて呑気に街を歩くと微かな潮の香りが感じられる。犬とお散歩するご婦人の脚線美も然ることながら、穏やかな日常を垣間見ると悍ましく悲しい過去が嘘のように思えた。〖第十五話了〗
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⏹️写真/テキスト:横澤悦孝 ⏹️モデル: