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スペイン代表の黄金時代から考えるサッカー論

代表監督でスタイルは変えられるのか?

 W杯3次予選の初戦・シンガポールとのホーム戦でスコアレスドローを演じ、8月の東アジア杯でも史上初の未勝利と最下位に終わり、ヴァヒド・ハリルホジッチ監督には「日本らしさがない」、「縦への速さは日本に向いていない」などとの批判が飛んでいます。また、逆に「球際の強さ」を求める監督の基準に日本代表選手が達していない、という選手への批判もあるのも当然です。

 しかし、監督が交代し、「縦への速さ」や「球際の強さ」を求めるだけでサッカーのスタイル自体が変化してしまうのも奇妙な話。前回の項で歴代日本代表監督のチーム作りについて書いて来たのですが、どの歴代日本代表監督もが自身の哲学やコンセプトは持っており、それを注入して来たものの、日本代表としてはどの時代も一貫してパスサッカーの路線には乗っていた、というのも事実。2010年の南アフリカW杯は徹底して守り切ってグループリーグを突破したとはいえ、デンマーク相手にリードを活かしながら追加点を狙いに行けたのは単純なカウンターではなく、しっかりと連動したパスワークも入ったコレクティヴな攻撃であって、それには「パスサッカーによるカウンター」という表現がピッタリとハマると言えます。

 今の日本サッカー界は「スタイルに固執してはいけない」と叫ばれています。少し前までは“日本化”が叫ばれていたのに・・・・。スタイルに固執してはいけない、と言われながら、極端に縦を意識するのも間違っているはずなのに。そもそも代表監督1人で一国の代表チームのスタイルが変えられるのか?という根本から怪しい。それも「監督選考にブレがある」という謎のアベコベ批判も筆者には理解不能です。

 それを前回の項から追っておりますので、2008年と2012年のEURO(欧州選手権)連覇、その間の2010年の南アフリカW杯も優勝という国際大会3連覇を成し遂げたスペインの例を持って解きたいと思います。

守備重視から攻撃的、サイド攻撃・・・日本以上に「監督の好み」が優先のスペイン代表

 スペイン代表は近年の黄金期が訪れる前は1964年の欧州選手権の優勝が唯一のタイトルで、W杯での最高成績は1950年のベスト4。サッカーというスポーツが近代化した1990年代以降のEUROやW杯ではベスト8が関の山です。いつも予選では無敗で勝ち進むために、戦争時代の歴史からとった“無敵艦隊”の異名をとりながら、EUROやW杯でベスト8以下の敗退に終わるたびに“有敵艦隊”と揶揄されるのが定番化しているのが現実です。日本もアジアでは相手が弱いので主導権を握って攻撃重視の試合運びをするものの、世界相手だと違うサッカーを志向しないといけない、というジレンマに未だに悩まされていますが、どうやらスペインも同じような状況だったのです。

 1992年、ハビエル・クレメンテがスペイン代表監督に就任した頃から予選は無敗街道が始まったのですが、バスク州の雄であるアスレティック・ビルバオで現役時代を過ごした彼は監督としてもビルバオを指揮。今ではバルセロナとレアル・マドリーの2強以外には考えられないリーガ・エスパニョーラの2連覇まで成し遂げている。

 そんなクレメンテは当然ながらバスク流のスタイルを志向。英国からのサッカーが伝わったという伝承と、芝生が育たない土壌、スペインの中では体格の大きな民族にあるバスク人の特徴を活かしたその“バスク流”とは、現在のスペイン代表のパスサッカーの真逆と言える長身FWにロングボールを放り込むキック&ラッシュ。GKアンドニ・スビサレッタ、MFフレン・ゲレーロ、ホセ・マリア・バケーロ、FWホセバ・エチェべリアというバスク人選手が主力を担い、共に日本の横浜マリノス(当時)でもプレーしたDFアンド二・ゴイコエチュアやFWフリオ・サリナスも常連で、彼等もバスク出身選手。使用したシステムにもバラつきがあり、W杯の決勝トーナメントに入ると<5-4-1>を採用し、その中盤には本職DFのフェルナンド・イエロとセルジ・バルファンを起用するほどの超守備的な陣容と戦略。過去を知らない現在のスペインサッカーのファンにコレを話すと、筆者は「嘘つき」呼ばわりされるのですが、事実です。

 ただ、国際大会ではベスト8が最高だったものの、彼の時代には31戦無敗の記録も達成しているので結果は出ていたのですが、1998年のフランスW杯で当時は世界最注目の若手FWだったラウル・ゴンザレスがW杯デビューを飾ったものの、そこでグループリーグ敗退。結果だけで首を繋いできたクレメンテは結果が出なくなった事で切られる運命に。

 1998年に守備重視のクレメンテからアントニオ・カマ―チョへと代表監督が交代すると、今度は真逆の攻撃的なサッカーへと舵を切るようになったスペイン。ただし、それは現在のようなパスサッカーではなく、両サイドにホアキン・サンチェスやデ・ペドロのような純正ウイングを起用し、最前線のフェルナンド・モリエンテスやディエゴ・トリスタンといった長身FWに合わせるサイド攻撃。ただ、ラウールのカリスマ性や、前線の4人は完全にアタッカータイプが配置される攻撃重視のサッカーは人気がありました。それでもカマ―チョは2002年の日韓W杯準々決勝で主審の判定が物議を醸した、“あの”韓国相手のPK負けによるベスト8敗退により、協会から慰留されても辞任を決意。