誰もが魅了されたジュビロ磐田の黄金時代 魔法陣”N-BOX”の衝撃
そんな名波さんとジュビロの黄金時代を語る上で外せないのは、清水商業高校時代の1年先輩でもあった元日本代表MF藤田俊哉さん(現・オランダ2部リーグのVVVフェンロのコーチ)の存在。名波さんは日本代表で10番を背負いながら、ジュビロでは常に7番。“ジュビロの10番”は名波さんが高校時代から、「憧れの存在。ずっと背中を追いかけていた」という俊哉さんであり続け、その存在もあってJリーグ4クラブからのオファーの中でジュビロへの入団を決めたのが名波さん。
俊哉さんとの“ゴールデン・コンビ”はまさに阿吽の呼吸で成立していました。2人のテクニックの高さはJリーグでも別次元に達しており、ジュビロはこの2人を軸にした中盤のパスワークや構成力を全面に押し出したチームになっていました。ノールックパスの多さや、ゲームメイクに徹する名波さんと、フィニッシュに絡む俊哉さんの役割分担も自然と高校時代から整理されており、華麗で優雅なプレーぶりに相手チームのサポーターまで酔わせていたとさえ言えます。実際、僕は当時はガンバ大阪を応援していましたが、2002年のステージ優勝争いの直接対決で、2-4とガンバがリードしていながら延長戦の末に5-4で敗れた試合であっても、ジュビロのサッカーに惚れこんでいました。
中でも衝撃的だったのは、名波さんをピッチの中央に置いた事で命名されていた通称”N-BOX”という日本代表経験者5人(名波&藤田の他に、奥大介、服部年宏、福西崇史)による中盤で相手チームをも魅了した魔法の布陣。斬新だったのは両サイドの俊哉さんと故・奥大介さんはウイングバックではなく”攻撃的MF”としてプレーしていた事で、名波さんは中央へ入って来るプレーが特徴の俊哉さんや、俊哉さんのポジションをカヴァーする服部さん等とポジションチェンジする”フリーマン”としてプレーしていました。特に俊哉さんは2001年と2002年には2年連続で二桁得点を記録し、2001年はJリーグ年間MVPを受賞していた事が、普通のウイングバックとしてプレーしていたわけではない事を証明しています。
この“N-BOX”はクラブW杯で「レアル・マドリードに勝利するため」に誕生したシステムで、日本人の特徴である運動量の豊富さをプレーの連動性として武器にして世界王者に対抗する、という“日本化”が叫ばれる現在の日本サッカー界にとっても指標になるようなサッカーが披露されていました。名波さんと俊哉さんの対談では、「(鈴木)秀人やマコ(田中誠)には『お前らは一生懸命ボール奪って早く俺らに渡せよ。お前らは余計なことしなくていいよ。あとは俺らが何とかするから』と試合中にも言っていた。」らしいです。逆に服部さんからしたら、俊哉さんの裏なんて守備面では危なっかしいとしか思っていなかったでしょうが、逆にそこを相手に狙わせてたというぐらいのカヴァーリング能力もあったわけです。最近では西野朗監督時代のガンバ大阪が、常に左サイドバックに入る選手(安田理大・下平匠・藤春廣輝)が守備面に問題がある点を利用して、このジュビロのサッカーに組み合わせると“5人目のMF”とも言えるDF山口智さんのカヴァーリングでボールを奪い取っていたのにニュアンスが似ているかもしれません。
名波さんによるジュビロでのベストゲームは、この“N-BOX”が初めて最高に機能したと自他共に認められた2001年4月7日に国立競技場で開催された鹿島アントラーズ戦(3-2でジュビロの勝利)。とにかく、「簡単にボールが奪えた、支配できた」そうで、レアル・マドリーと対戦する事を念頭に置いているため、相手よりも動いて判断を鈍らせるためにどこまで連動した守備ができるか?を追求した試合で、「面白いようにボールが奪えた」そうです。
そんな名波さんが「ジュビロを選んで良かった」と言える理由は、「タイトルや黄金時代を築いたからではない。もし、面白くないサッカーでタイトルを獲っても、心の中には『別のクラブのサッカーの方が上だった』と悔いが残る。でもジュビロは勝っただけでなく最高に面白いサッカーを披露した。ジュビロを選んだのは俺だけではなく、みんなが選んでくれて、あのサッカーを実現できた事が何物にも代え難い財産です」
本当にジュビロのサッカーはそれぐらい見事で、サッカーファンの誰しもを魅了していたのです。特に名波さんが2001年に半月板を負傷して手術する事がなければ・・・ジュビロはアジアを再び制覇して世界に名を轟かせていたのでは?そして、2002年の日韓W杯に名波さんが出場していれば韓国のようにベスト4ぐらい行けたんでは?なんて、あの頃からサッカーを見ている人にとっては共感してもらえるのではないでしょうか?
以上、次回は【日本代表編】です。しばしお待ちの上、お楽しみに☆