アドルフ·ヒュッターの生まれ故郷はドルンビルン郡の街ホーエンエムス。アルタッハで降りる一駅前でその名を車窓から目にした。SCRAのユ-スで頭角を表したミッドフィルダ-が、グラ-ツ、リンツと渡り歩き再び懐かしのウェアに袖を通したのは1991年。しかしその名前を欧州メディアに広く報じられるのは、’93年からザルツブルクに在籍した七年の間。移籍初年度のUEFA杯では、ベスト16でポルトガルのスポルティングを延長戦、ベスト8でフランクフルトにアウェ-ゴ-ル差、ベスト4でカ-ルスル-エSCをPK戦と薄氷を踏む試合の連続ながら決勝まで勝ち上がる。オ-ルドファンの記憶に残るのはリスボンの強豪相手にアディショナルタイムに決めたヒュッターの同点弾。そしてフランクフルトとの初戦[1-0勝利]のゴ-ル。第二戦でも四人目のキッカ-で登場し成功している。
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もうひとつの山を登ってきたのはインテル·ミラノ。当時この大会は決勝戦もH&A方式。東西アルプスの山を隔てた両都市での試合···にはならなかった。
インテル戦の前週となる’94年4月19日、スコットランド代表との親善試合でA代表初スタメン初得点も記録している。二週連続してピッチに立ったのは“聖地”エルンス·ハッペル·シュタディオン。13,500人の動員を記録したスボルティング戦まではザルツブルクで開催されていたのだが、フランクフルト戦からは、ウィーンへと舞台が移され 47,000人を超える観客がエルンスト·ハッペルでザルツブルクの背中を押している。当然多くのウィーン市民を含まれておりこの決戦に国民が一丸。一方ネラッズーリが押し寄せたサンシ-ロの入場者数は八万を超えており、さすがに周辺を含めば150万人規模とイタリアのみならず欧州屈指の大都市圏。ロッソネロのサポ-タ-が足を運ぶことなどまず有り得ない。累積警告でヒュッターが出場停止のザルツブルクはホームで0-1の敗戦。第二戦のサンシーロではスタメン出場し前半はスコアレスで折り返す。1978年にはアウストリア·ウィーン、’85年にはSKラピド·ウィーンが共にカップウィナーズカップの決勝進出を果たしているがあと一歩銀杯に手は届かず無念の涙を流したオーストリア国民にとっては悲願ともいえる欧州タイトル。その夢を打ち砕いたのは後半20分オランダ代表ヴィム·ヨンク:Wim Jonk【1966年10月12日生】のゴール。連勝で頂上へと登り詰めたのは西側のインテルだった。
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