Foot ball Drunker〔44〕 visiting 『 Ivan Laljak-Ivić Stadium 』ザプレシッチ / クロアチア

エンドが替わった後半息を吹き返したザプレシチ。後半5分いきなりPK獲得で同点に追いつく。そして分岐点は18分後、最終ラインで体を張っていたズヴォニミル·ミリッチ:Zvonimir Milic【1995年2月20日】にこの日2枚目の黄札が提示される。


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数的有利を掴んだザプレッシッチはその2分後、マークの歪を突いたアントニオ·ボセッチ:Antonio Bosec【1997年8月28日生】がクロスボールを上げる。頭であわせたのはヴラトコ·ブラジェヴィッチ:Vlatko Blazevic【1994年10月23日生】。

HNKツィバリアの監督は失点直後、トップ下の10番を下げセンターバックをピッチに送り出したが後手を踏んだのは否めない。そのままスコアは動かず、終了のホイッスルが厳寒のスタジアムに響く。この観客数では勿体ない好勝負がピッチ上では熱く繰り広げられた師走の夜。


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印象に残ったのは試合後の光景。アウェーの敗者は長居は無用とばかり、姿を消すのが常。しかし一部のチバリア選手達はベンチに戻り動こうとしない。一人少ない状況で体力を使い果たしたのは勿論、この日降格でも決まったかのような落ち込む様に些か驚かされた。クロアチア人の負けず嫌いを垣間見た気がする。


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翌日ペットボトルのDesetkaをグラスに注ぎながら紙面に目を通す。最高点はブラジェヴィッチの7.5、個人的には決勝点をアシストした20歳のサイドバックには+0.5の7点をつけたい。


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カバー写真は愛蔵本の『東欧サッカークロニクル』。著者の長束恭行:Yasuyuki Nagatsuka 【1973年1月9日生】氏は、2001年9月からザグレブに10年間在住の《クロアチアの達人》。長束氏のnoteには2004年にモドリッチがプレーしていた当時の貴重な写真が掲載されている。イヴァン·ラリャク·イヴィッチのスタンドが賑わっていて驚く。

多くのサッカー関連の書籍を拝読してきたが、同書の悪名高きバッド·ブルー·ボーイズ(下写真)一行に沿ドニエストルまで随行した体験談ほど笑える話はない。10代のシェリフサポーター達はディナモサポーターの東洋人に面食らうが、ディナモはフーリガンだからと優しく忠告する長束氏が日本人らしい。今や猫も杓子もYouTuberの時代に無謀な企画も珍しくないが、この長束氏の旅だけは絶対無理。その行動力には恐れ入るしかない。

変わりつつある日本人のイメージ。変えてるのは誰


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インターネット時代の夜明け前、日本にはリアルタイムの情報が入手できない中で、欧州のTVニュースでは、国連·明石氏のザグレブでの映像が流れていたことを後年知る。本年はGDPでドイツに抜かれ4位に後退する日本。国民一人あたりに換算すると20位前後。90年代半ばGDPが世界2位ならば防衛費予算も世界2位。しかし「金は出しても手は汚さない」火の粉は被らないのがジャパニーズ。ザグレブからサラエボへと一貫して中立の立場で和平調停に向けて奔走した明石氏は欧州における日本人のイメージを大きく変えた。