整理整頓して出て来た“お宝アイテム”
先日、久しぶりに大掛かりな掃除と整理をしていたら、サッカー関連の素敵なアイテムが出てきました。1993年のJリーグ創設をキッカケにサッカーを観始めて、プレーもして来た筆者にとっては最も憧れた選手のプリントTシャツでした。
Jリーグ創設の翌年、テレビとはいえ初めてリアルタイム観戦した1994年のW杯アメリカ大会。小学生だった筆者は早朝4時や5時に起きて、そのピッチに立っていた1人のサッカー選手に魅了されました。明らかに1人だけ周囲の選手と「同じ空気を吸っていないのでは?」と思える彼の周りには独特のオーラが出ていました。
彼は肉離れを抱えて大会に挑み、チームもグループリーグ初戦で敗れて、第2戦もGKが退場処分に。彼が控えGKと交代でピッチを去った時、「敗退決定だな」と小学生であった筆者だけでなく、世界中の誰もが思ったはず。しかも、その交代時に監督へ向かって、「お前の頭は狂っている」とジェスチャー付きで批判的な行動をとった彼のW杯は終わった、と。
しかし、彼のW杯は終わっておらず、それどころか「彼のためのW杯」へと彼もチームも大会自体も変化していくのです。”彼”の名前はロベルト・バッジョ。27歳で迎えたアメリカW杯でイタリア代表の【10番】を背負ったポニーテールのファンタジスタ。
偶然出て来たとはいえ、これを機に彼が”イタリアの至宝”と言われる所以、度重なる多くの監督との衝突、タイトルに恵まれないキャリアについてまとめ、初めて観た時に「日本にもこんな選手が出て来たらな・・・」と思った想いを、そのまま本当に体現してくれそうな日本人選手へ向けて書いてみました。
初めてロベルト・バッジョを観た衝撃~序盤は不調、監督批判で最低
1994年アメリカW杯、イタリアはグループリーグの初戦・アイルランド戦で0-1と敗れ、第2戦のノルウェー戦もスコアレスのままの前半終了間際に守護神GKジャンルカ・パリューカがレッドカードで1発退場。控えGKのルカ・マルケジャー二と交代させられてベンチに引き上げるR・バッジョはサッキ監督へ悪態をついてピッチを去りました。チームは1人少なくなった後に、“もう1人のバッジョ”守備的MFのディノ・バッジョが後半に得点して勝利したものの、守備の大黒柱である主将のDFフランコ・バレージが負傷。3戦目のメキシコ戦も芳しくなく1-1のドローに終わり、イタリアはグループリーグを1勝1分1敗の勝点4で終了。
奇妙なことに、このグループの4カ国は全てが勝点4と得失点0で並び、得点数の多いメキシコが首位(3得点)、イタリアと得点も同じで直接対決の差でアイルランドが2位(2得点)に、イタリアは3位となり、1得点でノルウェーが最下位に。当時のW杯は現在開催されている現在の女子W杯と同じく24カ国参加の大会で、グループリーグは4カ国ずつ6グループに分かれ、各組2位以上+3位の上位4カ国が決勝トーナメント進出というレギュレーションであったため、イタリアはかろうじてグループリーグを突破。
当時のイタリアは、サッキ監督がACミランの監督時代にDFラインを高く保って攻撃的な守備を遂行する“新戦術・ゾーンプレス”で成功を収め、欧州チャンピオンズカップ2連覇を達成。欧州全土にその新戦術を流行させた戦術家の指揮官の下、それまでのカテナチオと呼ばれる超守備的な戦術からの脱皮が期待された上での優勝候補でした。しかし、日本代表でも加茂周監督が導入しながら機能しきれなかった理由と同じく、アメリカのピッチ状態の悪さや、気温の高さから来る運動量の低下により、ゾーンプレスは全く機能しませんでした。