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アウェ-での開幕戦はAEKラルナカに0-2で白星発進。シュニッチもフル出場して勝利に貢献した。このアノルトシス戦でも同世代のぺぺ:Pêpê【1997年5月20日生】とドイスボランチを組んで中盤を制圧。後半22分に嬉しい初得点を記録している。この二人は’19年のUEFA U21欧州選手権目指す代表チ-ムに招集されており、シュニッチのクロアチア代表は、’17年の予選を突破、下馬評どおり本選へ。ところが残念な事にペペのポルトガル代表は予選敗退の屈辱を味わう。’16年にディナモからロコモティフ·ザグレブに貸し出されたシュニッチは、’17年クロアチア代表の北米遠征メンバーに招集されメキシコ戦でA代表デビューを果たすのだが実際その顔ぶれはB代表。クロアチアに見切りをつけると昨秋のUEFAネーションズリーグからボスニアヘルツェゴビナ代表に定着している。上下写真は’17年12月にザグレブで撮影したシュニッチ。オレンジの腕章を巻いた背番号三十はこの試合の三週間にテッサロニキで行われたギリシャU21代表戦でもキャプテンを務めていたから注目してはいた。
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この’17年には欧州文化首都に指定され活況を帯びたのはパフォスとデンマークのオーフス。EU指定の都市で年間を通して多種多様な文化交流イベントを開催するプロジェクト。1月28日の開会セレモニーで上演されたのはキプロス王ピグマリオンと彼がこさえた彫刻にアフロディーテが生命を吹き込んだ美女ガラティアの神話。現実の女性に失望していた王が彫刻に入れ込み、衰弱していく姿を哀れに思い女神は願いを叶える。二次元美少女に恋するアキバ系男子には共感を得るであろうストーリーではないか。ちなみに’85年文化首都トップバッターに選ばれたのはギリシャのアテネだった。
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英国に支配される暗黒の時代
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産業革命の影響で犯罪が多発した英国から、独立戦争に勝利し受刑者の受け入れを拒否したアメリカの後釜にしようと目をつけられたのがオーストラリア。カンガルーやコアラの住む国に自治が認められ連邦が成立したのは1901年。カナダも1867年には既に連邦として独立しており両国は独自の海軍を有していた。一次大戦に英国が参戦となれば自治領(国)も否応なく協力参戦するしかない。カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、それにやや遅れて南アフリカからも兵士が派遣されているのだが、結果各自治国民は英本国からの自立へと向かう切っ掛けに。それに対して大戦後、英国が強引に併合したのがキプロス。時代の波に逆行して1923年からは直轄の王冠植民地にしてしまった。
親子ほど年齢の離れた若者達に何処に行ってたのと聞かれキプロスの名前を出すと、「トルコとギリシャで縄張り争ってる島でしょ。」と返されよくご存知と感心した。
地理的にもわかりやすい現状であるのに対して、「以前は英国領だったのさ」と返すと驚かれたからこの黒歴史は知らなかった様子。
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ブリュッセルで生まれたヘプバーンは父親の祖国である英国の国籍を受け継ぐ。二次大戦中はオランダ貴族末裔の母親とアーネムで暮らし1944年にオランダを襲った大飢饉では死栄養失調で三途の川の手前まで行くほどのは衰弱を体験。
この三途の川にも欧州版がある。ギリシャ神話の勇者アキレスが浸かって不死身の身体となるスティクス川があの世との境を流れている。
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十九歳の少女の渡英と英国からの独立を掲げた地中海の孤島
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終戦を迎えるとアムステルダムへと移住。それから母親と共にバレエを学ぶ為、ヘプバーンがロンドンへと渡ったのは’48年。この年「キプロスはギリシャに併合されるべき」と、イギリスからの独立を唱えたのはギリシャの国王。キプロスの住民の八割はギリシャ系なのだからギリシャへの帰属を願って当然。しかし英政府はがこれを弾圧したからギリシャ正教のマカリオス大司教を中心に島民は一致団結。その後対立は深まるばかり。そして1955年に反英暴動が勃発する。
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