初めてプレシーズンから指揮を執る事ができている名波浩監督のサッカー観を説く連載を書き下ろしております。名波さんの現役時代のプレーを振り返りながら、【ジュビロ磐田編】、【日本代表編】を経て、今回はその第3弾として、名波さんが現役時代に拘ったパスを題材に、パスサッカーに対する考え方や、理想のMF像を通して、“監督・名波”のヒントになりそうな部分と共にまとめました。
お楽しみ下さい。
≪参照≫
「パスで生きていく」覚悟と決意 スキラッチやドゥンガから貰った”自信”
大卒新人ながらジュビロ磐田ではJリーグ開幕戦から先発に抜擢されてレギュラー定着。半年後には日本代表へ招集され、デビュー戦となったコスタリカ代表との親善試合でいきなり初ゴールを記録するなどデビューから2戦連続得点で一気に代表にも定着した名波さん。
傍から見れば順風満帆。しかし、自身の心境としては、「プロしてやっていけるかどうか不安だった」らしく、それは1年先輩の藤田俊哉さんも同じだったようです。その視点は冷静で、他のプロサッカー選手よりもフィジカル的に劣る事、何よりスピードがない事に対して深刻に感じていたのは、ジュビロ磐田でのデビューイヤーを左サイドのウイングバックでプレーしていたからかもしれません。
そんな名波さんがプロとしてやっていく自信となったのが、“パス”で生きていく決意と覚悟を持った事でしょう。プロ生活14年の現役引退会見で、「ボール1,2個分のパスのズレ」を引退理由に挙げる姿にも1本のパスへの拘りが窺えました。
では、名波さんが「パスで生きていく」自信を確信へと変えたのは何だったのか?それはプロ1年目の1995年7月8日、清水エスパルスとのホームでの“静岡ダービー”での決勝点。当時のジュビロ磐田の元イタリア代表FWサルバトーレ・スキラッチのゴールをアシストした自身の浮き球スルーパスでした。
名波さんご本人が、このパスを「ベストパス」と呼んでいるようです。そして、そのプレー以上に大卒1年目だった名波さんに対して、1990年のイタリアW杯で7試合出場6得点で大会得点王に輝いたワールドクラスの選手から初めて褒めてもらった事が「パスで生きていく」“自信”を“確信”に変化させたのでしょう。こういうのが有力な外国籍選手を獲得する本当の意義で、ジュビロはスキラッチから学んだ中山雅史がJリーグの得点王に2度輝き、それを受け継いだ高原直泰が1度、前田遼一が2度のJリーグ得点王を獲得するというJリーグでは稀有な日本人の点取り屋が歴代在籍するクラブとなっていったのでしょう。
同様に、ブラジル代表の主将として1994年のアメリカW杯優勝と、1998年のフランスW杯準優勝を経験したMFドゥンガの影響力は福西崇史・服部年宏・名波浩・藤田俊哉・奥大介といった同じMF陣へ波及し、彼等を日本代表へ押し上げる事にも繋がったのでしょう。
意外にも”芸術性”よりも”実利性”重視 アイデアを共有する事で打開する”機能性”
「ボール1,2個分のパスのズレ」を引退理由に挙げる名波さんのパスに対する拘りは、独特の表現による尺度にも現れます。実際に、「ボール半転がし」の“世界”を観ているのです。引退時にはボール1,2個分のズレがあったのならば、ボール半転がしの世界を緻密に動かしていた名波さんからすれば引退理由としては妥当です。見えないところで誰にも分らないようなことに徹底的に拘る事が“プロフェッショナルの証明”だとするならば、名波さんのパスに対するそれは、まさにプロフェッショナルの鑑と言えるでしょう。
パスにかけるバックスピン回転や、スぺ―スにボールを“落とす”感覚。上記に挙げたスキラッチへの“ベストパス”は、ゴールラインを割らないようにバックスピンをかけ、それでいて相手最終ラインとGKの間にボールを落とすという、名波さんの丁寧かつプロフェッショナルな仕事による超絶技巧の浮き球スルーパスだったのです。
ただし、司令塔として長短自在のパスを駆使する中で、アイデアを重ねたり、閃きのような感覚的な部分を大事にしていそうなプレースタイルとは違い、名波さんが最も大事にしていたのは、パスの受け手にとって「使える」と思えるパスである事を重視している事でした。芸術性溢れる得点直結可能なキラーパスを出すよりも、パスの受け手が受け取りやすくて次のプレーをスムーズに選択・連動できるように出すパスを常に意識している、と。