121〗Stade de Gerland /リヨン

冬季五輪閉幕 レゲエの国のボブスレー挑戦は終わらない

ミラノ·コルティナ冬季五輪も昨日無事閉幕を迎えた。冬季五輪でインパクトを残したのが1988年のカルガリー五輪のジャマイカ代表ボブスレーチーム。正直に言えばこの大会を観戦しておらず、五年後に公開された映画『クール·ランニング』でその存在を知った。
今回のミラノ·コルティナにも同国から唯一参加した種目が氷上のF1。昨年11月24日にウィスラーで開催されたノースアメリカンカップ。この大会で男子四人乗りチ-ムは初の金メダルを獲得し五輪出場に大きく前進した。イタリアではメダル獲得には至らなくとも男子二人乗りや四人乗りで完走し、世界トップレベルに迫るパフォーマンスを披露したから強ち将来のメダルも夢ではない。人口280万強のジャマイカではあるがウサイン·ボルト:Usain Bolt【1986年8月21日生】を筆頭に多くの金メダリストを輩出した陸上王国。
ところでロ-マ夏季五輪で首にかけられた金メダルを川に投げ捨てた黒人アスリートの伝説を若い方はご存知ないだろう。

巨匠ガルニエが手掛けた芸術的スタジアムをつくったのは誰

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第121話はスタッド·ドゥ·ジェルラン。上写真の入館証にはStade municipale de Gerlandと記載されているからこちらが正式名称。つまりリヨン市が所有する市立のスタジアム。1998年6月26日に日本代表とジャマイカ代表が対戦したが第一次岡田JAPANは三連敗を喫しドゴール空港を後にした。イタリアでトニー·ガルニエ:Tony Garnier【1869年8月13日生-1948年1月19日没】ローマ大賞を受賞したのは1899年。上の写真はローマのスペイン広場。側にあるヴィッラ·メディチ:Villa Mediciは現在もフランスアカデミーとして機能しているからややこしい。支給された賞金でヴィラ·メディチで四年間古典建築を学び「産業都市」構想で名を馳せた都市景観デザインのパイオニア。1904年以降は生まれ故郷でもあるローヌ県リヨン市で活動して生涯の幕を閉じる。
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ドイツ人捕虜がこさえたフランスのスタジアム ドイツ人捕虜と初の国際都試合をした日本

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ノ-トルダム寺院やモン·サン·ミッシェルよりもフランスで見たかった建物が、彼の代表作品のひとつでもあるスタッド·ドゥ· ジェルラン。旧ジェルランの着工は1913年。直後の第一次大戦勃発で当然工事は中断せざるを得ない状況に。しかし六年後に再開できたのは、ドイツ人捕虜の存在があってこそ。1919年当時フランス軍により捕えられた後、本国で抑留されていたドイツ人は数は約三十九万人。
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戦最前線に働き盛りの男性が出兵する一方、日常の生活にも働き手は必要なわけで、フランス陸軍省は管轄する各地の公益事業に捕虜を動員する。人手不足で大助かり、元来勤勉なゲルマン民族だから危険で過酷な環境での労働を強いるより、大切に扱ったほうが良いにきまってる。今になって歴史を振り返るならば一次対戦は、銃弾が飛び交う戦場よりも捕虜になるほうが、非国民とよばれようが良いにきまっている。ちなみ休戦を迎えると復員兵が労働市場に復帰するので、今度は競合を避けるため捕虜労働力を調整することに。被害が甚大な仏北東部に送られ、なかなかドイツ捕虜は祖国に帰してもらえなかった。ジェルランは、1967年に歴史的記念物として認定登録される。

つまり日本人初となる魂のゴンゴールが日本サッカー史の扉を開いたスタジアムはドイツ人の勤労の上に成り立っていたのである。歴史を紐解くと本場欧州との初顔合わせは1919(大正8)年1月26日に広島高等師範学校のグラウンドで行われた試合で間違いない。
ドイツ人捕虜兵は、サッカーを通じて広島市民と交流を深めていた。同盟国の英国ではなく、ドイツ人捕虜が日本で欧州の技術を持ち込んだ興味深い史実。日本人がサッカーボールを蹴ったのは1873年(明治6)英国のアーチボルド·ルシアス·ダグラス:Archibald Lucius Dougla【1842年生-1913年没】少佐と海軍兵学寮の生徒とのふれあいから始まった。
1914(大正3)年、その英国からの要求で日本はドイツに宣戦布告、中国における拠点であった青島を叩く。アジアの偏狭を守備するドイツ兵など、たかが知れている。戦闘は瞬く間に終了。四千五百名強のドイツ人が日本各地の収容所へと移送される事に。