巨匠ガルニエが手掛けた芸術的スタジアム
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「工業都市」の計画等で国際的知名度も高い都市景観デザインのパイオニア、トニー·ガルニエ:Tony Garnier【1869年8月13日生】。生まれ故郷でもあるオーヴェルニュ ローヌ アルプ地域圏のローヌ県リヨン市が活動の中心だったが20歳からの青春はパリのエコール·デ·ボザールで過ごした。10年後には念願のローマ賞を受賞。支給された賞金でヴィラ・メディチでの暮らしがスタートしたのは1899年。
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彼の代表作品のひとつでもあるマトムット·スタジアム。旧ジェルランの着工は1913年。直後の第一次大戦勃発で当然工事は中断せざるを得ない状況に。しかし1919年に再開できたのは、ドイツ人捕虜の存在あってこそ。1919年当時フランス軍により捕えられた後、本国で抑留されていたドイツ人は数は約39万人。
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戦最前線に働き盛りの男性が出兵する一方、日常の生活にも働き手は必要なわけで、フランス陸軍省は管轄する各地の公益事業に捕虜を動員する。人手不足で大助かり、元来勤勉なゲルマン民族を危険で過酷な環境での労働を強いるより、大切に扱ったらほうが損はない。
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一次対戦は、銃弾が飛び交う戦場よりも捕虜になるほうが、良かったと今は歴史を振り返る事ができる。ちなみ休戦を迎えると復員兵が労働市場に復帰するので、今度は競合を避けるため捕虜労働力を見直すことに。フランスは被害が甚大な北東部に送り、なかなか、祖国に帰してもらえなかったのがドイツ捕虜。
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1998年FIFAワールド杯初出場の日本代表は三戦全敗。アルゼンチンとクロアチアに負けてもジャマイカには勝てるだろうと思っていたから、世間知らずではなく世界知らず。そのジャマイカ戦が行われたのもスタッド·ジェルラン。日本人初魂のゴンゴールが日本サッカー史の扉を開いたスタジアムはドイツ人の勤労の上に成り立っていた。
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日本人がサッカーに触れる最初の機会は、1873年(明治6)英国のアーチボルド·ルシアス·ダグラス:Archibald Lucius Dougla【1842年生-1913年没】少佐が海軍兵学寮の生徒に教えたとされる。
1914(大正3)年8月23日、その英国からの要求で日本はドイツに宣戦布告、中国における拠点であった青島を叩く。アジアの偏狭を守備するドイツ兵など、たかが知れている。戦闘は瞬く間に終了。4,500名強のドイツ人が日本各地の収容所へと移送されする事に。