Foot ball Drunker〔171〕visiting 『Nagyerdei Stadion』デブレツェン / ハンガリ-

東の旧都 プロテスタントと学生の街を歩く

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ハンガリー第二の都市でも人口は20万人強。19世紀半の戦時下では僅かな間ながら首都として機能したデブレツェン。
行き交うのは国内最古の高等教育機関として名高いデブレツェン大学の学生達。彼らにとっては住みやすい街。個人的に欧州の首都で最も治安が悪いと感じたのがブカレスト。ルーマニア国境まで30キロに位置するものの清潔で落ち着きがあり、犯罪発生率の低さにも頷ける。但し刺激を求める方には滞在をお薦めしない。


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コシュートとカルヴィン、二つの広場の間には1805年の着工から完成まで約二十年を費やした新古典主義様式の建築物。カトリックが大半を占めるハンガリーではあるが、この街のランドマ-クは国内最大規模のプロテスタント教会。

1902年に創設され、それまで欧州で知られる機会の無かったデブレツェニVSCが一気に注目を浴びたのは2004-05年の国内リーグ初優勝。するとそこから07年まで怒涛の三連覇。


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金色に輝くトロフィ-の隙間からHNKハイドゥク·スプリトのエンブレムが垣間見える写真。2005年7月27日UEFAチャンピオンズリーグ予選二回戦ではクロアチアの強豪と対戦。大方の予想を覆し二試合合計8-0の圧勝で突破。三回戦で力尽きたもののオ-ルドトラフォ-ドの5万人を超える観衆に囲まれてのプレ-はクラブ史に新たな足跡を遺した。


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この年の春には18歳の若者がトップチ-ムへと昇格。後にキャップ数100越え、代表チームでも精神的支柱となるジュジャーク·バラシュ:Dzsudzsák Balázs【1986年12月23日生】こそその人。三連覇を置き土産に翌08年冬にPSVへと移籍。ロシア、トルコ、UAEを巡って2020年古巣デブレツェニへと復帰。彼との出逢いは既に157話で記した。印象深いのはオランダ移籍後初得点を記録したVVVフェンロー戦。この日がオランダデビュ-戦となる本田圭佑:Keisuke Honda【1986年6月13日生】の目の前で決めた一撃。フェンローの二部降格/昇格を経て’09年の開幕戦で再会。ジュジャークのクロスにオラ·トイヴォネン:Ola Toivonen【1986年7月3日生】が頭であわせPSVが二点をリ-ド。後半からはこの日主将章を巻いた本田が本領発揮の1G1Aでフェンローが追い付きその後双方1点を加えてのドロ-。


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それから二年半を経て’12年三月にモスクワで顔をあわせた両雄。CSKAのトップ下に君臨する本田の前にディナモの11番を背負ったジュジャーク。この試合は同年齢の両者が共にアシストを記録し1-1の引き分け。翌月の再戦は1-0でディナモの勝利。ラストパスはジュジャーク。同年10月もジュジャークの左足で先制し結果は2-0。本人達の知らないところで筆者の頭の中では日本代表エ-スのライバル/天敵キャラクターとして出来上がっていたのがハンガリ-のエ-ス。デブレツェニは2009-10シーズンには念願のUEFAチャンピオンズリーグ本戦出場を果たす。初戦では四万人を超えるアンフィ-ルドを経験。ACFフィオレンティーナとの点の奪い合い(3-4の敗戦)が行われたのは残念ながらデブレツェンから230キロ離れたブダペストのプスカシュ。


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欧州でも一躍脚光を浴びたことで、新スタジアム構想を発表したのは2010年3月。第171話はデブレツェンにあるナジェルデイ·シュタディオン。完成したのは’14年。ショ-ケ-スに展示されているのはベルンのヤングボーイズと交換したペナント。14年8月21日のUEFAヨーロッパリーグ一次予選で対戦した際の記念品。当時のメンバ-で記憶に残るのは左サイドバックのコルフト·ミハーイ:Korhut Mihály【1988年12月1日生】。