Foot ball Drunker〔157〕visiting『Hidegkuti Nándor Stadion』ブダペスト / ハンガリ-

三戦全敗ながら、古豪復活の狼煙をあげたアトランタ五輪

◇◇◇◇◇

正直あまり見ていない、見る暇もないパリ五輪ではあるが男子サッカ-は快進撃。先ずは四連覇を狙う若きカナリアを破り、アルゼンチンと引き分けた南米の強豪を一蹴。
続いて身体能力な高いブラックアフリカンのマリ代表、更に先程欧州の伏兵イスラエルを相手に三連勝で決勝トーナメントへ。オーバーエージ不用の選択は北京五輪以来16年ぶり。J創設後初めてプロ契約選手達で挑み28年ぶりの五輪出場を果たしたアトランタ五輪の頃はメダルなど恐れ多く「一人でも多くの若者に世界の経験を積ませたい」と清く尊い時代。あのマイアミの奇跡から28年の歳月が過ぎている。あの時もブラジル→ナイジェリア→ハンガリーの対戦順たったから今大会と同じ。
最終戦を前に敗退が決定していたハンガリー五輪代表。それでも金メダリストとの初戦は0-1、ブラジル戦でも一度は同点に追いつくなど、厳しい欧州予選=U21選手権を勝ち抜いてきただけのことはある好チ-ムであったことは間違いない。


◆◆◆◆

第157話はハンガリーの首都、MTKブダペストの本拠地。ヒデグチ·ナーンドル·シュタディオン。2013年6月1日はシーズン最終節。老朽化で取り壊された旧施設はプレス席、VIP席と一般席の仕切りもなく1400人の観衆にまぎれて古巣を応援しに来たA代表のエース、ジュジャーク·バラージュ:Balázs Dzsudzsák【1986年12月23日 】を簡単に見つけ気軽に挨拶できたから敷居が低い。

この試合がハンガリーネムゼティ·バイノクシャーグ一部の記念すべき初観戦。試合前にベンチ入りしているメンバー氏名の発表に「さすがに知っている選手はいないだろう」と半ば諦めていたのだが・・・・・・・・・いた。
記憶に自信がないので宿に戻り先ずはPCを開く。スマフォは入手しておらずガラケ-を愛用していた11年前。確認してみたら間違いない。
この日MTKブダペストの対戦相手はデブレツェンVSC。そのベンチに控える背番号7はティボル·ドンビ:Tibor Dombi【1973年11月11日生】だった。この時39歳の大ベテランが、現役のプレ-ヤ-でいることに驚き。僅かな時間でもプレーが見たかったというのが偽るざる本音。


◆◆◆◆◆

1996年7月25日オーランド·シトラスボウルスタジアム。最終戦で対戦したハンガリー五輪代表ツ-トップの右側。赤いユニフォームの背番号7ドンビは、94年にA代表デビューを済ませており圧倒的なスピードが持ち味。所属するジュビロ磐田では右にポジションをとる鈴木秀人:Hideto Suzuki【1974年10月7日生】がこの五輪代表チ-ムでは左ストッパ-に。そして左か本職の服部年宏:Toshihiro Hattori【1973年9月23日生】がボランチの位置で相手の十番を潰すタスクを背負っていた。このハンガリー戦ではフェアプレーで世界から称賛される日本も後半15分に鈴木、40分過ぎには服部が警告を受けているのだが何れもドンビの突破への対応。2002年までの磐田黄金期を支える守備の要二人が手ならぬ足を焼いた快速は、リアルタイムでTV観戦したサッカーファンの脳裏にしっかり刻まれているだろう。ユトレヒトやフランクフルトでもプレーした後、02年から古巣デブレツェンに復帰。


◆◆◆◆◆

MTKブダペストの創設は1888年、中産階級の富裕層とユダヤ教徒が体操とフェンシング部門を設立。1901年に立ち上げたフットボ
ール部門も三年後には国内制覇。惜しむことなく私財を投じたアルフレッド·ブリュル:Brüll Alfréd【1876年12月10日–1944年没】会長の尽力でMTKは強豪クラブへと成長する。このブリュル氏は1924年のパリ五輪開催に向けて国際アマチュアレスリング連盟会長に選出された人物。水泳とレスリングの近代的なルールと競技システムを創設したメンバーの一人でもある。この偉人の忌日が不明なのはアウシュヴィッツでその生涯の幕を閉じたから。狂気の独裁者はいつの時代も無意味な悲劇を生み出す。

1950年代に入るとマジック·マジャール旋風が欧州に吹き荒れる。その中心となるヒデグチ·ナーンドル:Hidegkuti Nándor【1922年3月3日-2002年2月14日】は、’56年のハンガリー動乱の影響で主力の大半が国外へ亡命する中、国内に留まりMTKでのプレーに拘る。’58年に現役を退くとそのまま同クラブの監督に就任している。