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対するNKムラも三連勝で順位は四位。好調同士の対戦は互いに慎重になりスコアレスで折り返し。試合を決めたのはマトコの二試合連続弾。過去二年間のU19欧州選手権予選では六試合六得点と決定力は証明済み。今シーズンはハンガリーのウーイペシュトに移しており、ここまでの六試合で三得点と新天地でも好調をキープ。今月は末招集だっただけに、A代表に定着したいところ。そういえばU19だけでなく‘21年9月に行われたU21代表の親善試合/ハンガリー戦でも得点を記録していたから相性は良いかも。
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NKムラでは当時二十一歳のトミ·ホルヴァト:Tom Horvat【1999年3月24日生】が頭角を現し国外移籍も時間の問題。このミッドフィルダ-は今月のFIFAワールドカップ(WCEQ)欧州予選にも招集されている。但し出番はなかった。現在はオーストリアのシュトゥルム·グラーツでプレー。ちなみに前述のU21代表のハンガリー戦ではこのホルヴァトもゴールを決めており、試合は0-3からスロベニアが追いついてのドローで終わった。
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大宮アルディージャ監督時代のヴェルデニクは一般観客や低年齢層、またスポンサー企業のフットボ-ルへの関心は少しづつ高まり、良い方向に向かっていると母国についての感想をコメントしていた。しかし、問題は代表チームではなく、クラブにあるとも厳しい指摘も。スタジアムから暫く歩くとジュニア·ユース世代の試合をしているので親御さん達と一緒に見入った。黄色いウェアがNKブラヴォ。育成組織は中々に優秀で、ブラヴォのユースアカデミーからはこれまで多くのプロ選手を輩出、その中でも秀逸なのが現在代表で不動のセンタ-バック、ジャカ·ビヨル:Jaka Bijol【1999年2月5日生】。彼はオーストリアとの国境に近いヴゼニツァの出身。十五歳からの高校年代三年間をブラヴォのユースで過ごすと’17年にルダル·ヴェレニエでプロデビューを果たす。この頃はその存在すら知らなかったが、その将来性を感じるプレ-ひふれたのは’21年写真のCSKAモスクワ時代。後から知ったのだか、この時既にA代表に招集された後だった。
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ウッディネーゼから今季は英プレミアのリーズ·ユナイテッドに移籍したものの四節まで出番なし。ベルギー、ウェールズと同世代の各国代表クラスがひしめき合うポジション争いを勝ち抜けるか。試合勘が鈍るようでは来月のWCEQへの影響も懸念されるところ。
そのウッディネーゼと代表でも同じ釜の飯を食ったのがサンディ·ロヴリッチ:Sandi Lovric【1998年3月28日生】。リエンツ出身でイタリアとの国境沿いの街ピラン育ち。U21代表までのオーストリアからA代表はスロベニアへと転籍。両親がクロアチア人なのでドイツ語、スロベニア語、イタリア語 更にクロアチア語も堪能なバイリンガル。下写真はスイスでもイタリア寄りのルガノ在籍時に撮影。中盤のオールラウンダーではあるが、今月6日のWCEQスウェーデン戦で疲労したのがシュートセンスの高さ。
現在のスロベニア代表チームの将は2018年から二度目の出陣となるマティアジュ·ケク:Matijaz KeK【1961年9月9日生】。昨年のUEFA欧州選手権ではベスト16でポルトガルにPK戦で無念の敗退。未勝利ながら無敗とスロベニア復活を印象づけた。‘98年~2000年生まれの世代は今回挙げた四人も含め欧州の広範囲で活躍しており層が厚くなった。
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独立新国家の誇りを胸に
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リユヴリャナ大学から南に歩いて三十分。Murglahでヴェルデニック氏は不自由なく暮らしている。二人の実子も優秀で、息子さんはボストンでロボット工学の研究を、娘さんは家族とロンドン在住。お仕事は銀行に勤務しているので、頻繁には会えない。ユーゴスラヴィアから独立は1991年、初代スロベニア代表を務めたのは前年までNKムラを率いたボヤン·プラシュニカル:Bojan Prašnikar【1953年2月3日生】氏。今ではプラシュニカルといえばアメリカのユタ·ロイヤルズでプレ-するスロベニア女子代表の愛娘ララ:Lara Prašnikar【1998年8月8日生】のほうが有名かもしれない。’93年に退任し襷はヴェルデニックに渡された。監督とコーチ、アシスタント、ゴールキーパーコーチ、医師、理学療法士は二名。そして財務担当とスタッフの数も今とは比べものにならない。初陣は’94年9月、対戦したのは三か月にローズボウルでセレソンと世界一を争った隣の大国イタリア代表。事前にアズーリを徹底的に分析して用いたのは意表を突くカウンター戦術。リュドスキ·ヴルトで勝ち点1を捥ぎ取っている。資金が常に不足する劣悪な環境でも新しい祖国を代表できる誇りを胸に眼を輝かせ戦った選手達。2000年からJリ-グの三クラブを指導した実績をここでは説明する必要もない。
イヴァン·シミッチ:Ivana Simic【1959年5月20日生】が09年2月協会·会長に就任。代表チームのディレクターに迎えられたヴェルデニクは、代表監督への就任を打診されている。承諾したのは南アフリカに向けて出発する数ヶ月前。しかし結局彼には航空券すら用意されなかった。’07年からA監督監督に就任し予選を突破したマティアジュ·ケクとの確執。自分の地位を脅かす存在を敵視したケクはシミッチ会長に、ヴェルデニックをユース部門へ左遷するよう要求した。この分裂を機会に母国協会から距離を置くようになったヴェルデニクは前述のとおりインテルブロックを経て八年ぶりとなる日本へ。現在UEFA会長を務めるリュブリャナ大学法学部出身の弁護士アレクサンドル·チェフェリン:Aleksander Čeferin【1967年10月13日生】がNKオリンピアを離れ協会の会長に就任したのは翌’11年だった。