31〗Ljudski vrt / マリボル

第31話はNKマリボルの本拠地スタディオン·リュドスキ·ヴルト。クラブ創立は第一次対戦後。陸上競技、テニス、サッカーの各部門が設けられた。カバー写真は、2002年に開催されたFIFAワールドカップ日韓大会の公式プログラム。オランダ代表の予選敗退に頭を抱え、驚かされたのはプレーオフでルーマニアを下して初出場を決めたスロベニア。韓国でのグループBで三戦全敗、日本のピッチを踏む機会はなかったが、国内組五名が招集されており、マリボルから三名、オリンピア·リュブリアナとコペルからそれぞれ一名が選出された。おそらくこの時スロべニアの都市マリボルの名前とこの街のクラブが国内屈指の強豪である情報が脳内にインプットされている。ちなみに息子を“出し”にして撮影をお願いしているが、日韓大会開催当時彼は二歳。この写真はドイツ大会開催の翌年ぐらい。彼をベビーカーに乗せて家族三人で地下鉄に乗っていたときのこと。扉が開き駅構内に筆者が視線を送るその先には美女。旦那は仕方ないとして、元嫁の話では赤ん坊まで同じ女性を凝視をしていたらしいから蛙の子はやはり蛙。
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スタジアムは二次大戦後の1952年にオープン。当初はブラニック·マリボルの本拠地だったがこのクラブは’60年に消滅。現在はマリボル市が所有·管理する市営の公立スタジアム。老朽化に伴い改修を計画が持ち上がる。その内容は既存の建物を残して、新たに屋根付きの観覧席=12,500人収容規模と、VIPおよび報道関係者用の空間を備えたフットボール専用へとリニューアルされる。また体育館、プール付きのフィットネスクラブ、売店、レストランなどの付随したサービスも充実した公共施設の概要が発表され’98年にコンペが実施される。
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流麗な曲線を活かした独特のフォルム これぞスタジアムの傑作

◇◇◇機運

1999ー2000 シーズンにはNKマリボルがスロベニアのチームとして初めてUEFAチャンピオンズ·リーグ=CL出場を果たから、機運も高まる中で改修工事の着工に。六十年代に建てられたのは、コンクリートのアーチ型の屋根で覆われた上写真。この西側の独立した旧スタンドがピッチ周りの一辺。残る三辺に伸びる馬蹄=U字型の新設されたスタンドが下写真。波打つリングの屋根で囲まれている。リノベーションの第一段階は€1000万を費やし’08年に完了。見違えるほど美しくデザインされたスタジアムが披露された。翌’09年にはIOC/IAKS銀メダルを受賞し注目を浴びるが誰がデザインしたのか興味をそそられた。
コンペの勝者はロク·オマーン:Rok·Oman【1970年生】とスペラ·ヴィデニュイッキ:Špela·Videčnik【1971年生】が’96年に設立したOFISアーキテクツ グラフィック事務所。共に自国のリュブリアナで学んでいた彼らが、先ず旅だった先は英国ロンドン。
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ここで建築学の修士号を取得。2001年英国&アイルランドで最も優秀な若手の建築家としての称号を手にすると、同年グラーツでの住宅複合施設の国際コンペティションに優勝。’06年にヨーロッパ イノベーション アワードのグランプリを獲得した。
アジアでは’04年の第一回北京建築ビエンナーレ、北米では’05年のマイアミビエンナーレでの受賞。’15年には『アルパイン·シェルター』で米国ボストンのAIAニューイングランドデザイン賞を受賞しており、その前年からボストンのハーバード大学を定期的に足を運び、その豊富な知識と経験を次世代の育成に役立てている。
写真は’16年のヴェネツィア映画祭を取材する為、初めてリド島に足を踏み入れた瞬間シャッターをきった。見慣れた赤の正方形の左横に長方形、その上に有翼の獅子のシルエットと白抜きの文字。このロゴマークは芸術展/建築展/映画祭と共通。その後だジャルディーニとアルセナーレにも立ち寄り、建築ビエンナーレのスロベニア·パピリオンで初めてロク&スペラの名前を知ることになる。
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海外での名声を高める一方国内での実績も多く’03年にはリュブリャナ市立博物館の改修と拡張を手掛ける。’09年のクラシュニャの送別礼拝堂、’12年のメスニ広場にあるクリスペルジェヴァ ヒシャ集合住宅と地元リュブリャナでの作品は、歴史的な建物と現代的スタイルを組み合わせた対比、現代的な建物と自然で囲み周囲の要素を模倣している。これまで独創的なアイディアと明確なコンセプトで多くの審査員に感銘を与え喝采を浴びてきた二人。その背景にあるのは九十年代の旧ユーゴスラビア内戦分裂。経済·文化が大きな転換期を迎えたことは見逃せない。大規模な建築事務所の多くが倒産や規模を縮小するしかなくなり、その結果、若い個人やグループが建築コンペに参加できるチャンスを掴み台頭することができた。政治や芸術や文化スポーツの垣根を越えて広く見渡しても、この二十年の間で最も国際的な実績を重ねたスロベニア人を一人挙げるならば独断と偏見で彼らを推す。正確には二人なのだが。
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