コロナ禍終焉で復活 握手は挨拶ではなくパフォーマンスの日本
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仕事柄多くのフットボーラーと握手する機会に恵まれている。80年代旅行代理店に勤務した時、初対面の直属上司と握手した時、外国人と頻繁に接する業種ならではと新鮮に感じた。コロナ禍での自粛を経て、四十年近く経った現在の日本でもハグは兎も角、握手の習慣が一般に普及しているとは言い難い。文化の違いで、芸能人やスポーツ選手などの著名人とのサイン会や握手会は特別なサ-ビス。後は選挙期間中に街頭で候補者が見せるパフォーマンスぐらいではなかろうか。日本人が遂やってしまうのが両手の握手。これは本来欧州ではNGなのだが、日本流、独自のパフォーマンスと理解して笑ってくれる方も増えた。
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ベルギーのエノー州のムスクロンはフランス国境沿いの街。リ-ルから二十五キロ程の距離。列車で三駅で下車。車でも三十分もかからない。パリからブリュセルへ移動の際立ち寄ったことが一度だけある。第89話はスタッド·ル·カノンニエ。このスタジアムを本拠地としていたのR·M·ペルウェルは2014年プロリーグに昇格すると’16年ロイヤル·エクセル·ムスクロンと改名して新たなる一歩を踏み出した。それから僅か六年後の’22年に財務上の不正が発覚、負債額は一千万€に達し5月31日破産を申請して消滅。改名からから消え去るまで計三人の著名なオーナー達によって経営が引き継がれていた。2011年からリ-ルOSCとのパートナーシップ提携により選手の補強やトレーニング施設利用などの恩恵に授かりベルギートップリ-グへと駆け上がったエクセル·ムスクロン。’15年に終了して経済的窮地に立たされたところで救世主ピニ·ザハヴィ:Pini Zahavi【1943年8月24日生】氏の登場。マルタのゴル·フットボールリミテッドファンドを通じて、三年間でコミットされた投資総額はなんと八百五十万€ 。
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大物代理人のピニ·ザハヴィ ヒ-スロ-で偶然の出逢いが人生の転機に
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イスラエル中部の都市ネス·シオナに生まれ兵役を終えた後スポーツライターとして人脈を広げる。’79年にロンドンのヒースロー空港で遅延したフライトを待っていたところ、当時のリバプールFC事務局長ピーターロビンソン:Peter Robinson【1957年9月4日生】と偶然出会った。この縁でマッカビ·テルアビブ所属のイスラエル代表アヴィ·コーエン:Avi Cohen【1956年11月14日生-2010年12月29日没】移籍が実現。そこから代理人としての道を歩み始めたザハヴィ氏。記憶に新しいところでは、ロベルト·レヴァンドフスキ:Robert Lewandowski【1988年8月21日生】が年俸一億€超のオイルマネ-オファーを断ってバルサ入り発表にも同席。「サウジアラビアリーグには外国人枠の制限など複数の問題がある」と述べた本人のビジネスこそ問題だらけなのである。
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2015年5月、FIFAはクラブや選手が第三者の投資家との経済的権利協定締結を禁じた。投資ファンドに所有権があると本人やクラブの意向を無視して何時でも好きなように売却できる。この慣行を問題視したのはFIFAだけではない。当時UEFAのミシェル·プラティニ:Michel Platini【1955年6月21日生】会長は現代の奴隷制度と辛辣に批判している。噛み砕いて言えば、クラブの経営や成長、選手の希望や将来などは二の次、目先の金金···金しか頭にない奴に権利を与えたらあかんと言う話。
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