119〗Stadion Rajko Mitić / ベオグラード


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それにしてもこの’60年当時のユ-ゴ代表は攻撃の司令塔にドラゴスラヴ·シェクララツ:Dragoslav Šekularac,【1937年11月8日生-2019年1月5日没】。点取り屋のボラ·コスティッチ:Bora Kostić【1930年6月14日生-2011年1月10日没】。万能型のブランコ·ゼベツ:Branko Zebec【1929年5月17日生-1988年9月26日没】。守備ではヴラディミル·ドゥルコヴィッチ:Vladimir Durkovic【1937年11月6日生-1972年6月22日没】と主軸には攻守ともツルヴェナの面々が顔を揃えている。

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オシム時代の劣勢を倍返しにしたしょ将軍プラティニの欧州制覇

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1965年4月18日FIFAワールドカップ(WC)予選、ベオグラードのツルヴェナ·ズヴェズダ·スタジアムが完成以降、初めてフランスが乗り込んできた。東欧の名門サラエヴォ大学出身の知性派プレイメーカー、イヴチャ·オシム:Ivica Osimが【1941年5月6日生-2022年5月1日没】代表を牽引する時代。この試合はホ-ムの利でユ-ゴが1-0の勝利。十月の再戦ではフランスが借りを返しスコアも同じ1-0。

1968年4月、ENC第三回大会準々決勝での対戦はユーゴが5-1と圧勝している。大会ベストイレブンに選出されたオシムを母国のクラブから引き抜いたのはフランスのRCストラスブール。結局78年にキャリアに終止符をうつまでフランスでプレーし、十代のプラティニとも対戦している。’76年の第五回大会は後にも先にも唯一のユ-ゴスラヴィア=社会主義国家での開催。ところがユ-ゴスラヴィアはチト-が鬼籍に入ると連邦各共和国による輪番制大統領制へ移行した。自治会やマンションの役員や、ゴミ集積所の清掃以外でこの輪番制など聞いた事がない。燃えるゴミと不燃ゴミの分別するのとは訳が違う。案の定、指導力の低下が経済危機を悪化させた。新ユーゴ連邦の大統領となったスロボダン·ミロシェヴィッチ:Slobodan Milošević【1941年8月20日生-2006年3月11日没】はセルビア人。武力で他の民族を抑えて連邦を維持しようとしたところへ東欧民主化の波が押し寄せ、地獄の’90年代へ突入してしまう。
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赤星が輩出した90年代のスタ-達
大国分裂による試練の時代

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フットボールに話を戻すとユ-ロに加え冬季五輪、ロサンゼルスでの夏季五輪とスポーツ大イベントが目白押しとなった’84年。
サンテティエンヌでのグループA·第三戦でハットトリックを達成したのはプラティニ。フランスは、3-2でユーゴスラアを撃破すると勢いは衰えることなくアンリ·ドロネ-杯を獲得する。将軍プラティニはキャリアの集大成で最高の栄誉を手にし現役を引退。WCイタリア大会予選でアンリ·ミッシェル:Henri Michel【1947年10月28日生-2018年4月24日没】監督が更迭されると白羽の矢が飛んできたのは’88年。就任間もなく初戦は強敵ユーゴと11月19日にベオグラード(会場はパルチザン)で対戦する劇的な展開。オシムが指揮を執るユーゴ代表が3-2で勝利。ドラガン·ストイコビッチ:Dragan Stojković【1965年3月3日生】の決勝ゴールを決アシストしたのは途中出場のデヤン·サヴィチェヴィッチ:Dejan Savićević【1966年9月15日生】だった。
ちなみにピクシ-の代表デビューはこの試合の五年前、ザグレブでのフランス戦である。1991年ファイナルでオリンピックマルセイユに移籍したストイコビッチを下しての欧州制覇もドラマチックだった。
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