「縦への速さ」、「球際の強さ」これが、今年3月に日本代表の指揮官に就任したヴァヒド・ハリルホジッチ監督を示すキーワードと言えるかもしれません。そして、それは今までの日本代表やJリーグにはなかった要素かもしれません。これまでも日本代表の監督が交代すると、その途度にこうしたキーワードがありました。
ハンス・オフト監督時代は「トライアングル」、「アイコンタクト」。加茂周監督は「ゾーンプレス」、フィリップ・トルシエ監督は「フラット3」、ジーコ監督は「自由」、イビチャ・オシム監督(第2期・岡田武史体制も含む)は「日本化」。アルベルト・ザッケローニは・・・「自分達のサッカー」?
ざっくりと洗いだすと以上のようなキーワードが挙げられます。1993年のJリーグ創設後は加茂周監督(岡田武氏監督は加茂監督のコーチ出身)以外は基本的に外国人監督に指揮を任せ、上記のキーワードやその監督のそれまで指揮していたチームの戦術コンセプト、前任者との整合性も決して一貫しているとは言えずにバラバラです。
ただ、それはサッカー界の世界地図で言えば、1993年当時の日本はW杯にすら出た事もなく、そのW杯で未だ未勝利の韓国にすら負け続ける圧倒的な発展途上国に過ぎませんでした。1つ覚えれば次の課題をモノにしていく成長過程にあっては、どちらと言うと一貫している方がオカシイ。
それらは日本が世界を相手にした場合に、その時期・その当時のステップに必要な要素でした。そして、それが1993年の日本サッカーのプロ化=Jリーグ誕生と欧州・南米国のプロリーグ創設の差である50年を埋めるためのモノ。それらを日本に取り込むために外国人指導者を日本代表監督に招聘してきたのが日本の代表チームを巡る歴史だと言えます。
パスサッカーの土台を作ったクラマー&オフト 世界レベルのプレッシングを植え付けたトルシエ
先日に他界された“日本サッカーの父”ことデットマール・クラマー氏は、1960年に日本代表コーチに就任(実質的には監督)。あまりにもボール扱いが下手だったからか?トラップの方法から指導し、「ワンタッチプレーを強要していたのは日本人選手が下手過ぎたから」という話まであったものの、ワンタッチプレーはそのまま選手間の距離を縮める必要性が生じるためにパスサッカーの原型を自然と作ったとも言えます。
基礎技術の向上を戦術を通して指導されて体得していった日本は、1964年の東京五輪ベスト8進出。そして、続くメキシコ五輪では銅メダル獲得の快挙を成し遂げました。日本へサッカーを持ち込んだのは英国人と言われていて、イングランド式のキック&ラッシュが主だった日本にとってはドイツ流が新鮮だったのかもしれません。
ただし、絶対的なエースFW釜本邦茂が代表から離れると一気に弱体化。結局、1度もW杯へ出場する事がないまま1990年代まで突入。そんな日本がW杯へ出場するために倒さなればいけない相手は常に韓国。しかし、彼等の真似をするのではなく、メンタル面の強さや運動量の豊富さに対抗してテクニック面で勝負したい。でもそれには「日本人指導者では限界がある」(当時の川淵三郎強化委員長)。
そこで現・ジュビロ磐田の前進であるヤマハ発動機、サンフレッチェ広島の前身であるマツダSCで指導経験があったオランダ人指揮官=ハンス・オフト監督が就任したのが1992年。”Jリーグ開幕前夜”と言える時代はクラマー氏以後の日本人監督が積み上げきれなかったモノを上手く整理した事でチーム力が飛躍的に上がったと言えます。実は彼の日本代表監督の就任期間は僅か1年半でした。
その短い期間で、「トライアングル」や「アイコンタクト」というサッカーの基礎の基礎の部分を、1990年代に入ってプロ化するような時代になってまで代表選手に指導するような事ではないのかもしれません。実際、「何を今さら・・・」当時のラモス瑠偉(現・FC岐阜監督)もオフト監督の指導法に当初は不満を持っていたのも公になっており、柱谷哲二主将から「チームからはみ出すような行動をとるなら代表から外れて下さい」と叱責に近い激励の説得により、ラモスがチームに残ったという話も有名です。
しかし、日本人が知識として持っていながら形にできなかったモノを、クラマーと同じくオフトも基本を見直すという論理的な視点から着手する事で個人戦術からグループ戦術へとスムーズに派生。当時の代表選手は一同に「パスが回り始めた。パスサッカーしてるよ、俺達」となり、そこから「スリーライン」や「コンパクト」といった基本的なチーム戦術を体得する事で、そのまま1992年のダイナスティカップ(現・東アジアカップ)や、同年のアジアカップで共に初優勝。日本代表にとっての初めての公式国際大会初タイトルを獲得しました。翌年の”ドーハの悲劇”があったものの、W杯と無縁だった国が最終戦のロスタイムまでW杯出場権を持っていた事も「成果」と言えば、そうでしょう。
その後、加茂監督がイタリアのACミランが志向していたゾーンプレスを導入した時代があり、その時にプレッシングの知識や体験だけは分かっていながらも結果が伴わなかったあと、トルシエがやって来た時もそう。彼が全体をコンパクトにした上で、「フラット3」によるオフサイドトラップを植え付け、プレッシングサッカーを整理。トルシエが来なければプレッシングも正しく伝達されなかったかもしれません。彼は下部年代の代表監督も兼任する事で、若手選手の積極的な登用もスムーズになりました。もちろん、Jリーグが開幕してからプロになった彼等は年上の選手よりも国際経験が豊富で技術力も高かったのも事実ですが、トルシエが直接指導した事で年代を問わずに多くの日本人選手に日本代表のコンセプトが浸透した事は大きく、「俺は休んでいない」と豪語する現監督以上のハードワークをしてくれていたと言えます。
論理的な指導が日本人には向いているが、大成功は”トルシエ流”
ただ、トルシエの戦術で勝ったり、それに雁字搦めにまでなるのでは本当の進化はない。だからこそ、ジーコ時代は“黄金の中盤”と言われた中田英寿や中村俊輔、小野伸二、稲本潤一の海外でプレーする4人を筆頭に、個人の能力やアイデアという我流で勝負したものの、秩序すらないまま・・・。
ただ、ジーコが失敗すれば、オシムが”日本人に合った”プレーを特徴として整理。具体的には技術やアイデアはジーコ時代と同じで、「フィジカルが敗因だ」というジーコ監督の指摘には、体格や強さといった部分とは違う敏捷性(アジリティ)や運動量という違った種類のフィジカルで補う手法。岡田監督第2政権も南アフリカW杯直前で結果重視の現実策に急転換したものの、それまでは日本ラグビーの理想と言える”接近・展開・連続”を合言葉にする”日本化”が進められたオシム路線の継続。