第94話はMŠKジリナの本拠地シュタディオーン·ポド·ドゥベニョム。まず初めに、このスタジアムは駅からのアクセスが最高。駅舎から線路を挟んで北側にスタジアムが隣接しているので駅のホームから位置が確認できる。プレス室には、2008年UEFA杯アヤックス戦の写真パネルが飾られていた。あの日あの時は■2015年5月30日フォルタナリ-ガ第33節MŠKジリナ対スパルタク·トルナヴァ。2014-15シーズンの最終戦。現地プレスに日本から来たと伝えると、おともでプレス席に座れた。このあたりがスロバキア。おそらくチェコでは有り得ない。できればチケットを買う前に声をかけてくれればよかったのだが。配られたコピーに目を通しても知っている名前がないのは当然。電光スコアボードにも表示されたマルティンが二人、ミロシュが二人、・・・名前にMばかり並ぶ。誰に注目すればよいのかと尋ねると「ミランだ!」と即答が返る。···ミランも両チームにいるがジリナのミラン·シュクリニアル:Milan Škriniar【1995年2月11日生】らしい。
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1995年生まれなので二十歳になったばかり。デニス·ヴァヴロ:Denis Vavro【1996年4月10日生】、ボヤン·レティッチ:Bojan Letić【1992年12月21日生】と平均年齢二十歳の若いスリ-バックで大丈夫なのかと、訝しげに見ていたが、破綻することなく無失点で試合終了のホイッスル。シュクリニアルは十七歳でトップデビューを果たして既に三年、でかいのに俊敏で1対1に強い。当時からモノが違うと感じさせられた。外転筋を痛め出遅れていたVfLヴォルフスブルクのヴァヴロは、今月22日のブンデスリ-ガ11節で今季初出場。バイエル·レバークーゼンに三失点黒星でも自身は頭でゴ-ルを決めており、ここから巻き返しを図る。ジリナで見た時は正直余り印象には残っていない。三十二歳のレティッチは、アゼルバイジャン·プレミアリーグのサバフFKでプレ-している。試合は後半怒涛のスリーゴ-ルでジリナの完勝。
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2016年冬のメルカルトでセリエAのサンプドリアへと移籍したシュクリニアル。35節のラツィオ戦は顔見せ。5月1日のパレルモ戦、背番号37は嬉しいスタメン·フル出場を果たした。2016年8月高校生になった長男とセリエA開幕戦を取材。十六歳でもプレス証が発行されていたのでセキュリティのスチュワートが驚き、笑っていた。シュクリニアルの成長も楽しみにしていたが、残念ながらこの日はベンチにすら入っていない。最終節ユヴェントス戦で赤紙退場=サスペンションを知ったのはかなり後。しかしこの日スロバキアのお隣チェコのボヘミアンズ1906からやってきた長身フォワードに目を奪われる。パトリック·シックの印象は、先月の第 話に記している。
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結局このシーズンはリーグ戦だけでもシュクリニアルは三十六試合、シックは三十二試合に出場。特にシュクリニアルはレッドを出され惜しくも連続出場が途切れたラツィオ戦を除くと四節ミラン戦からすべてフル出場。イタリアの水に慣れると翌年移籍したインテルではリーグ戦全試合フル出場を達成。2020-21はシーズン途中からレギュラーを奪い十一年ぶりのスクデット獲得に貢献した。今季はトルコのフェネルバフチェへの完全移籍。主将を務める代表でのキャップ数は現在八十七。三月にひかえるコソボ代表との欧州予選プレ-オフも彼がキ-マンとなることは間違いない。
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モンキ-D.ルフィは日本が産み出した国民的英雄でもそこはフィクション。スロバキアには国民的ヒ-ロ-が実在した。権力に対する反逆のレジェンド、ユライ·ヤノシーク:Juraj Jánošík【1688年1月25日生-1713年3月18日没】は社会的不平等の解消を求める国民の象徴:。彼はハプスブルク家の支配に蜂起したラーコーツィ·フェレンツ二世【1676年3月27日生-1735年4月8日没】の解放戦争に参加した後も、不当な支配者に怒りの炎を燃やし公然と反抗し、弱者を助けた英雄的な義賊。仲間を率いて山中に潜伏すると富裕層から金品を奪い、貧しい人々を助けたのがヤノシーク一味。決して人を殺めることはしなかったとされる。その物語は死後、民話、詩、歌、映画、テレビドラマなど多くの作品で描かれ、現在も深くスロバキアの文化や文学教育の中に根付いている。
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スクリ-ンに甦るスロバキアの英雄 監督はチェコの巨匠
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1935年制作された映画『ヤノシーク』のメガホンを握ったのはチェコの巨匠マルティン·フリッチ:Martin Frič【1902年3月29日生-1968年8月26日没】監督。ハンガリー人からの抵抗を押し通して、第四回ヴェネツィア国際映画祭にて上映されると大きな反響を巻き起こした。'36年だけでも、約一億人の観客動員が推定されており、1980年までに世界32カ国で上映されている。
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