幻のゴ-ルとアディショナルタイムの被弾
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そして迎えた後半17分 左サイドからのスピリドノヴィッチのスルーパスに反応したマスラスが右足で流し込んで遂にゴール。パスの出し手も受けても絶妙のタイミングで呼吸をあわせた。しかし判定はオフサイドで無効とされてしまったが、映像を見る限り誤審に違いない。パニオニオスのホセ·アニゴ:José Anigo【1961年4月15日生】監督が激昂してスキンヘッドからは湯気がでるのも無理はない。そして90分持ち応えた守備陣はアディショナルタイムに右サイドからのクロスを頭であわせられて終幕。
残念ながらシーソーゲームにはならなかったものの不運な判定に泣かされたホームチームの健闘が際立った好試合。2014年からパニオニオスFCに所属していたマスラスは、この試合から約三ヶ月後の年明け、オリンピアコスへ現役ギリシャA代表プレ-ヤ-として迎えられる。
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1914年世界大戦が勃発。ドイツとオーストリア·ハンガリ-に対して英仏露とその他諸々連合。後者に日本とアメリカが加勢したが戦場は欧州。’19年にはパリ講和会議が始まり六月にはヴェルサイユ宮殿での調印と戦後の処理が進んで日本国民はホッとしていた頃、欧州では新たな火蓋が切られていた。前年十月オスマン帝国が降伏するとアナトリア南部は東をイギリス、西はイタリアが占領した。
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イギリスを後ろ楯に’19年5月ギリシャ軍がイズミルに上陸しているが、これは明らかに停戦の協定に反する行為。弾圧されているギリシャ人の保護目的と、最近どこぞの大統領も同じ台詞を吐いているが、ギリシア正教徒に対する強制移住と大量虐殺が行われていた紛れもない事実。オスマン帝国末期はギリシャ人やユダヤ人など西欧資本が導入されており、1893年にイズミルと現首都のアンカラを結ぶ鉄道はドイツ資本によって開通されている。チュルク系が八割を占める今のトルコとは比較にならない程の《多民族国家》を形成していたオスマンには、かなり多くのキリスト教徒も暮らしていた。結局ケマル率いるトルコ国民軍が反撃に転じ’22年にはイズミルを奪還されてしまうがこの間三年と短いながらも、東ローマ帝国以来現ギリシャ側にイズミルのシーソーが傾いている。
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1913年から22年までの間、数十万人にも及ぶ旧オスマン在住のギリシャ人が民族浄化の名のもとに虐殺された惨劇については書くことすら気が咎める。生存者の大半はギリシャへ、東部在住者はロシアへ難民として逃げ出した。終戦語トルコ領内のギリシャ正教徒とギリシャ領内のイスラム教徒を交換。繰り返しになるがネア·スミルニで暮らし始め新たな一歩を踏み出せたのは、ほんの僅かな人々だった。1933年の地域人口は六千五百人。’40年になると一万五千人に。そして二次大戦終戦後にはようやく自治体として認められる新しいスミルニ。街の発展の歴史イコールフットボールクラブの歴史が欧州ではごく普通。クラブの会長が生き残ったアスリートを探し出し、クラブ再興へと漕ぎ着けた。とはいっても肝心の施設がない。アテネのパナシナイコスタジアム内の小さな部屋を間借りして事務所に。1923年、パニオニオスはのスポーツクラブ十団体に参加を呼びかけ競技会を復活させた。’37年11月、理事会はネア·スミルニへとクラブ移転を決断する。スタジアムの着工は翌’38年、一年後に完成した。その歴史を振り返りながらスタンドを眺めると胸が重く締め付けられた。
悠久の時を経て多くの血が入り雑じり、また多くの血が流され、心が枯渇しても逞しく生き延びた古代ギリシア人の末裔たち。
上写真はネア·スミルナからアテネに戻るトラム。青い空を見上げて呑気に街を歩くと微かな潮の香りが感じられる。犬とお散歩するご婦人の脚線美も然ることながら、穏やかな日常を垣間見ると悍ましく悲しい過去が嘘のように思えた。〖第十五話了〗
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⏹️写真/テキスト:横澤悦孝 ⏹️モデル:七菜なな