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サッカーとの思い出⑤ 〜いったんサッカーから離れて感じた「サッカーのある日常」

 Jリーグもオフシーズンになりましたので、少し僕のサッカーとの出会いや関わるキッカケになった事を交えながらサッカーを語らせてもらいたいと思います。

そして、コレがその最終回です。

 第1弾は、小学生時代は帰宅後すぐにランドセルを家の玄関に置いて野球をしていた僕が、サッカーやJリーグとどのようにして出会ったか?また、当時のJリーグの衝撃と、関西唯一のクラブとしてのガンバ大阪という部分にフォーカスした内容になっています。

 第2弾は、ヴェルディ川崎と三浦知良に魅了されながら、1993年6月5日の初めてのJリーグ生観戦以降、ガンバ大阪ファンになった小学4年生だった僕が、アメリカW杯やガンバの試合を観てから本格的にサッカーをプレーするまで、という内容になっています。

 第3段は、実際に中学になってから初めて本格的にサッカーをするようになって以降、どうガンバにインスパイアされたか?稲本潤一との対戦も含めて競技者としての事について触れたいと思います。

 第4弾は、僕の中学校・高校でのサッカー部としての活動や、その期間に当たる1996年~2000年ぐらいまでを、エムボマがいた時期のガンバの課題とフランスW杯でのオランダ代表の攻撃サッカーへの敬愛を全て関連させるテーマに沿った内容になっています。

 そして最終回の今回は、高校2年の途中でサッカーから離れ、社会人になってから”観戦者”としてサッカーと再会して以降から現在までの過程を綴っております。

 では、最後までお楽しみください。

サッカーから離れるも学生時代最後に
   ガンバ大阪が悲願の初タイトルを獲得!

 僕が高校2年生途中でサッカーから離れざるをえなくなったのは2000年。その頃にはガンバ大阪のホームスタジアム=万博記念競技場のゴール裏へのファンクラブ会員無料入場制も廃止されており、サッカーを続けられなかった僕はファンクラブも退会していました。同時にJリーグの地上波中継も急激に減って来た時期にあり、NHKかBS1で放送される場合のみJリーグを観る場合はありましたが、当時はビデオレコーダーすら壊れてから買い換える事もありませんでした。当然ながら万博へ脚を運ぶ事もなく、いつしかゴール裏の芝生席がコンクリートで固められたのを実際に現場で目にしたのは2006年になってからでした。

 もちろん、ガンバの事は好きであり続けたため、早野宏史監督時代に五輪代表選手が継続的に輩出された育成型チームや、2002年のジュビロ磐田との壮絶なるデットヒートの優勝争いと、その磐田との直接対決となったアウェイ戦の延長戦負けも生放送で観ていました。2004年に長身FWマグロンが負傷して以降に、160cmの小柄なテクニシャンMFフェルナンジーニョ(現・ガイナーレ鳥取)と日本代表へ選出される事になるFW大黒将志(現・京都サンガ)が2トップを組み始めた頃からは、さらに興味深く観ていました。

 まるでセレソン(ブラジル代表)のように、自陣に引いた相手を日本人選手だけでも崩していける攻撃サッカーの面白さを毎試合のように体現していたチームの試合を観るのは楽しかったです。2001年に高額な移籍金で獲得していたMF遠藤保仁、DF山口智(現・ジェフ千葉→来季・京都サンガ)のセンターラインや、自前のユース出身選手であるMF橋本英郎(現・ヴィッセル神戸退団)、二川孝広、家長昭博(現・大宮アルディージャ)らが技術とアイデアを駆使して自ら仕掛けるサッカーに、「“日本流”の未来がある」との誇りも感じられるエンターテイメント性に溢れたサッカーを披露し続けてくれていました。

 しかし、それを万博で体感する事は一切なく、クラブ史上初タイトルとなった2005年には準優勝したナビスコカップも含めても1度も現地観戦はしませんでした。大学4年生だった僕は深夜もアルバイトで朝の7時前に帰宅する生活でしたから。

 それでも2005年の学生生活の最後の年に、なんと僕のそれまでの生涯で万年低迷していたガンバ大阪と阪神タイガースがダブルでリーグ優勝するという奇跡のような年になったのはいつまで経っても忘れらない思い出となり続けるでしょう。

始発終電の忙しい毎日の生活の中で
   ガンバの試合を観る時間だけが幸せだった