バルセロナっぽいスタイルを植え付けようとしたチームや監督が、その計画を頓挫したのは結果が出なかったからだ。そして、チームや監督に対してサポーターが反発し、メディアも批判を繰り返したからだ。
近年でも2014年から2016年にマンチェスター・ユナイテッドを指揮したルイス・ファン・ハール監督はアヤックスでもバルセロナでもバイエルンでも、オランダ代表でも指揮を執った監督だった。そして、ユナイテッドでもそのスタイルを植え付けようとしたが、失敗した。バイエルンでも1年目に2冠+CL準優勝の3冠未遂という多大な功績を残しながらも2年目の途中で解任されていた。ファン・ハールはクラブを去る時、とにかくサポーターやメディアに嫌われ続けている。戦術や規律に頑な過ぎ、周囲への配慮が足りない彼自身のコミュニケーション力に問題があるのかもしれない。
逆にヴァンフォーレ甲府や京都サンガを指揮して来た大木監督は、甲府のクラブ史上初のJ1昇格以外に目立った結果を残してはいない。京都ではJ2で3年間指揮しながらJ1昇格を果たせずに辞任していた。それでも甲府や京都の選手やサポーターは、「ありがとう。サッカーの面白さが知れた」と言う。また、日本代表に定着したFW久保裕也(現・ヘント/ベルギー)を筆頭に、宮吉拓実や駒井善成(共に今季から北海道コンサドーレ札幌へ移籍)など、京都の下部組織出身選手を積極的に主力へ登用したチームは常に将来性が感じられ、天皇杯ではJ2クラブながら決勝進出も果たした。
また、ベテランとなった選手でも確実にサッカーが上手くなっていく様子が窺える大木監督の指導するサッカーは面白いし、その土地のサッカーファンに「サッカーの面白さ」やその基準を種として植え付けているような気がする。
ただ、2013年に京都の監督を辞任した当時は、いつも元気な大木監督の表情も優れなかった。
その後、大木監督は2014年にジュビロのU18チームの監督を務め、2015年からは地域リーグ所属のFC今治のアドバイザーと、女子サッカーの3部相当となるプレナスチャレンジリーグに所属するバニーズ京都SCのスーパーアドバイザーとして2年間を過ごした。ユースや地域リーグに女子サッカーを経験し、新たな“栄養”を蓄えた大木監督は2017年からJリーグの指揮官に復帰したのだ。
バニーズ京都の2部昇格に立ち会った大木監督
筆者は昨年の9月30日に西京極で開催された『プレナスチャレンジリーグ順位決定戦1~4位』の最終戦・VS FC十文字VENTUS戦でバニーズ京都の取材をしていた。その試合は勝てばバニーズ京都がプレナスなでしこリーグ2部昇格を争う入替戦への出場権を獲得できる試合で、バニーズは見事に勝利して12月の入替戦進出が決まった。その試合の終了直後、大木監督がピッチサイドに姿を現していた。翌日に岐阜のデーゲームが組まれているのに、かつての教え子のために来場していたのだ。
印象的だったのは、バニーズ京都の選手達が、「大木監督、大木さん!」ではなく、「大木センパイ!大木センパイ!」と呼んでいたことだ。そして、「おう!おう!元気しとるか!」と、選手達とハイタッチをしながら声を掛ける“大木センパイ”は“後輩”に負けない笑顔で元気っぷりをアピールしていた。
直後、筆者は勝利したバニーズ京都を率いる千本哲也監督(下記写真)にこんな質問をしてみた。
―――先程、FC岐阜の大木武監督が来られていました。昨年までの2年間をスーパーアドバイザーとして関わられた大木監督の指導は、バニーズにどんな影響として残っているのでしょうか?
「ひと言で言えば、『笑顔』ですね!
大木さんが来られた2015年は負けの方が多いチームでしたし、2016年もプレーオフで3戦3敗して昇格を逃しましたが、試合に負けても、『次、次の試合。次の練習から切り替えよう!』、と。そういう言葉は僕らが言うよりも、大木さんのような立派な指導者の方に仰ってもらった方が選手達にも言葉として入ってきます。そして、練習に来られる時も明るい笑顔を振りまいて下さります。
そんな当たり前のことを当たり前にできるように、毎日サッカーを普通にすること。
それを学ばせていただきました。」
その後、バニーズ京都は12月に格上となる、なでしこリーグ2部・9位の吉備国際大学Charmeとの入替戦を戦い、ホームでの第1戦を4-2、アウェイでの第2戦も0-1と連勝して2部昇格を勝ち取った。大木監督のチームのように格上相手にも攻撃的なパスサッカーを貫いた姿勢には確実に“大木イズム”が浸透していた。
そして、その入替戦2試合にも大木監督は来場されていた。2戦目の岡山県津山市での試合終了直後には千本監督が泣きながら大木監督と抱き合うシーンもあった。京都の地元テレビ局出演時、千本監督は、「勝利した瞬間に2年間いろんなことを教えていただいた指導者の方の姿が見えたので思わず感極まってしまいました」、と。
(大木監督の写真は権利上、掲載できません。申し訳ありません。)