2000年に母国のフローニンゲンでスペシャルオリンピックス開催が決定するとスポンサーとして名乗りを上げたのも同財団。身体障害者が競うパラリンピックは本年リオで開催されるがこのスペシャルオリンピックスとは知的障害者のためのステージ。同財団が聴覚、言語などの障害を抱える子供達に対するサポートプロジェクト名もスペシャル・クライフコート。
1978年5月、バルセロナでスパイクを脱いだクライフは実業家に転向。しかし多額の借金を背負いアメリカでの現役復帰を決断する。その当時ダウン症候群を患う少年との交流以降、慈善に目覚める。
第二次世界大戦時は戦禍を避けて、サルバドール・ダリもガラとアメリカへ移住したのは1940年。この年フランコ政権の誕生でカタルーニャ選手権は消滅。バルサをはじめとする各クラブは現在のリーガ・エスパニョーラでのみ公式戦を義務付けられた。
「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」以外にも数多くのニックネームで愛されたヨハン・クライフ。1973-74シーズン、クライフの加入で14年ぶりのリーグ制覇を果たして以来、スペイン語で救世主を意味する「エル・サルバドール」が代名詞に。しかし筆者のお気に入りは以前にも述べたとおり「フィールドのレンブラント」。
友人は「フィールドのフェルメールのほうが良くない?」と言うが、一般的に知られる油彩よりもエッチングやデッサン、独自の複合技法にも見るべき作品が多い多様性、万能性こそクライフのプレーに重ねるのが相応しい。
死因は肺癌。昨年誌紙面に彼の名が登場する機会が減っており既に病床に伏せていたのだろうか。一昨年(2014年)10月バルセロナのスタンド。もし彼の手を握りしめた最後の日本人が筆者であるならば光栄の極みである。
西の空を暫し長め黙祷を捧ぐ(了)