政官汚職と書いて思い出すのが1963年に弘文堂が出版した『汚職のすすめ』、岩波書房から’81年には『汚職の構造』。日本で汚職なる言葉を考えたのが作家·評論家の故室伏哲郎氏:Tetsuro Murobushi 【1930年12月14日-2009年10月26日没】氏。 銀座六丁目のオフィスを訪ね当初原稿を修正していただくはずが、「なんだこの素人文章は!」と罵倒され、結局ご本人にほぼ一から執筆していただき、それを今度はリライトしたのが四半世紀前。その頃は普通にサラリーマンしか経験しておらず、文章といえば上司に提出する報告書程度しか書いたことのない正真正銘のどどどっ素人であった。この頃からか、文章を書くことに対する取り組み方が前向きになる。すると何を間違ったか、四年後には専門誌から連載の依頼が来るようになり現在に至る。こうして今も文章を綴っているのだから“恩師”に感謝せねばなるまい。
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第12話は1912年創立のACモンツァ。ミラノから北東へ約15キロ列車に乗ればモンツァ駅に着く。市内から更に北東郊外までバスに乗車してスタディオ·ブリアンテオに。夢よ再びと2018年9月当時三部のクラブを買収したベルルスコーニ。その情熱と資金力で開幕五連勝で手にした首位の座を一度も譲ることなく一年で二部昇格。翌年目標に掲げたセリエA昇格だったがここからは甘くはない。三位でフィニッシュして挑んだプレーオフ。チッタデラ戦はホームでの第二戦に2-0で勝利したもののあと1点が届かず。夢の実現は翌年へと持ち越された。
あの日あの時は■2021年11月21日セリエA第13節ACモンツァ対コモ1907。三連勝中と絶好調の相手に比べると、ヴィチェンツァ、USアレッサンドリア·カルチョ1912、FCクロトーネと何れも下位のクラブながら△〇△と今一歩勢いがつかないモンツァ。それでも距離にして四十キロに満たない両都市が争うデルビーとあって、前節初めて三千人を超えたシーズン観客動員記録を更に大きく上回る五万六千人の大半がブランコロッソの背中を押す。
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サイド重視の3-5-2のフォーメーション。現在もエースに君臨するダニー·モタ:Dany Mota【1998年5月2日生】が二得点の活躍。コモは後半十五分、二十分と立て続けのゴールで同点。振り出しに戻す。決着は残り二分に突然ついた。ディフェンダーのヴァレンティン·アントフ:Valentin Antov【2000年11月09日】からのボ-ルを受けたのはペピン·マシン:Pepín Machín。するとエリア外右斜め二十メートルの距離から放ったシュートの弾道は緩やかな弧を描きネットを揺らして勝負あり。
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アントフはブルガリアのソフィアに生まれ’15年CSKAソフィアで中学生年代にプロデビュ-した早熟の逸材。’21年2月ボローニャFCへ、半年後はモンツァへと貸し出され現在はクレモネーゼと
長靴の国を主戦場にしている。イタリアで記念すべき初アシストを記録したのは喜ぶべきでも当時21歳の誕生日を迎えたばかりでまだまだ課題も多い。アントフがピッチに入った直後の二失点に翌日のイタリア紙の採点は5.5がほとんど。中には贔屓目に見て6をつけてくれた記者もいた。二得点のポルトガル代表モタ、決勝弾のマシンは共に最高評価の7.5。バタ出身のマシンは赤道ギニア代表。この試合の結果には筆者も苦笑したのを思い出す。ベルルスコーニはモンツァ買収当時今後、イタリア人の若手を主軸に才能発掘と育成に注力するとコメントしていた。生前アズ-リの弱体を嘆いており、ミランとは異なるコンセプトを強調していたはず。将来的には代表へ複数の選手を送り出せるクラブ目指すと公言。とは言ったもののまずは結果。外国人頼りにならざるを得なくても理想と現実のギャップが生じるのは政治もカルチョも一般社会も変わらない。
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ボスマン判決以前のロッソネロは、外国人か得点してイタリア人で守り抜く、そんなイメ-ジが兎に角強かった。1992年に移籍金最高額の記録を更新してマルセイユから獲得したフランス代表のエース。’88年に欧州を制したオランダ人トリオの一角。旧ユーゴ=現在のモンテネグロが輩出した天才、そしてリベリアの怪人ジョージ·ウェア:George Weah【1966年10月1日生】。そんな中で唯一外国人枠に左右されることのない孤高のイタリア人ストライカーがダニエレ·マッサーロ:Daniele Massaro【1961年5月23日生】。エル·ドリーム·バルサを終焉へと追いやる伝説の’94UEFAチャンピオンズカップ決勝での二得点。前年のトヨタカップで来日。旧国立競技場では同点ゴールを決めており日本でも既にその名は知られていた。
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