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サッカーとの思い出④ 〜「浪速の黒豹」エムボマの衝撃、華やかに見えたフランスW杯

 リアクションサッカーだと批判された当時のガンバですが、たとえエムボマの身体能力と個人技に頼ったカウンターサッカーでも、それまで中位にも入れなかったチームのサポーターとしてはそれで十二分に満足でした。ただし、相手チームにもエムボマ対策以上に、引いて守られて、主導権を“握らされた”場合は全く崩せないサッカーになっており、そこは明白な課題として中学生の僕にも見えてはいました。

 そして翌年。Jリーグで無敵の存在であったエムボマは欧州復帰を目指し、“負傷”を表向きの理由として移籍活動に躍起となってほとんど試合に出場する事すらなく、その1998年に開催されたフランスW杯に出場後、彼はガンバに帰って来る事なく、イタリアのカリアリへと移籍して行ってしまいました。

 エムボマがいなくなったガンバは一気に低迷。最下位を争うまでに急降下しました。また、この頃からJリーグでは2部リーグとの昇格・降格制度が施されたのですが、その年だけの成績で降格が決まるのではなく、前年の成績とのポイント制であったため、この“エムボマ貯金”で降格をギリギリ免れたというのが示すように、本当にエムボマだけに頼っていたサッカーの限界と共に、本当のガンバのチカラは低かったのだと思い知らされました。また、フランスW杯に出場したガンバの選手はエムボマただ1人だけだったというのも少なからずショックと現実を思い知ったのを覚えています。

 そこからガンバは、2001年に大金を叩いて有力な若手選手だったMF遠藤保仁とDF山口智を獲得してセンターラインを強化したのを基盤に、MF橋本英郎(今季はヴィッセル神戸)、MF二川孝広、FW大黒将志という自前のユース出身選手を主力に抜擢。ユースから一貫しての主導権を握るサッカーを経験してきた彼等の抜擢により、日本人選手だけでも相手の守備を崩せる攻撃サッカーを2004年辺りから実践し始め、2005年のリーグ優勝による初タイトル獲得に繋がりました。

 しかし現在も、「苦しくなったらパトリックを使う」という選手達の発言に対して、僕が苦言を呈したり、アレルギー反応を感じる部分は上記のような部分でもあるのです。

オランダサッカーに魅せられるも
   高校でサッカーから離れざるをえなかった

 
 1998年のフランスW杯には日本代表が初出場した大会でもあります。日本戦の3試合はもちろん観ましたが、全敗で大会を去りながら接戦を演じた岡田武史監督の第1政権のチームに日本サッカーの可能性を感じました。

 しかし、この大会ではベスト4に入ったフース・ヒディング監督が率いたオランダ代表のサッカーに魅了され続けました。ガンバがリアクションサッカーから脱却できずに失敗していたからこそ、両ワイドを使った攻撃サッカーと、それを可能にする組織の中で活かす個人技としてのマルク・オーフェルマウスという特異なウインガーの職人芸。“ポリバレント”(多様性)を超えるほどの全ポジションをこなせるフィリップ・コク、サイドのスペシャリストとしてウイングとサイドバック兼備のボウデヴィン・ゼンデン。トラップだけで世界を変えられると証明するようなエレガントなプレーをするFWデニス・ベルカンプと、ぺナルティエリア内でのキープ力が半端ないFWパトリック・クライファート。この時のオランダ代表のメンバーがこの大会での活躍を機に後々スペインのバルセロナへ移籍していくのも興味深かったのを思い出します。(上記ではベルカンプ以外はバルサに在籍期間あり。)

 時を同じくして、競技者としての僕も中学から高校へ上がるに連れて変化が。上記のようなサッカー観の変化と共に、高校でもサッカー部に入った事で、「コレが本当にサッカーなのか?」と。中学時代のトレセン経験などにより、私立高校からスポーツ推薦のオファーがあったのですが、その高校の指導者や学業なども考えて断り、公立高校に進学したいのですが・・・・。やはり練習などでストレスを感じる事が多分にありました。また、父親の職場が不況の煽りを受けていたので制限もあり、高校のサッカー部のチームメートは練習後に皆で飲食店などで食事していたりしていた付き合いにも参加できずでした。

 結果的に中学サッカーでは色々と高いレベルを経験できたのですが、高校では選抜チームに選ばれたというのは大阪の公立高校だけでの大会でのオールスターマッチに選ばれたくらい。そして、高校2年生の途中にはアルバイトも開始しなければいけなくなり、次第にサッカーからは離れる事になってしまいました。

以上、本日はこの辺りまでにしておきます。

最終回となる次回は、僕が高校途中でサッカーを離れ、社会人になってサッカーに「観戦者」として再会したお話を通して、「サッカーとの思い出」を完結したいと思います。よろしくお願い致します。