しかし私にとってはそれでは物足りない。
何か不足を感じる。
やや個人的すぎるのだ。
私はあえてこのように言ってみる。
サッカーは人類の象徴である。
個人と組織の軋轢、学習と実践の繰り返し、教育手段としての適格性、政治的および経済的影響の増大化、階級社会と格差社会の象徴、民族主義や宗教主義の侵入とその排除の緊急性、自然科学の知識・特に流体力学の知識の導入、先進医療の導入とホスピタリティー及びメンタルコントロール、ブラックマーケットの資金源、国際機関としてのFIFAと人類の協調・・・。
このように上げればきりがない、つまり言いたいのはサッカーは人類の全てではないが、人類の象徴なのである。
すべてがサッカーにつながっているというのではなく、サッカーからすべてが引き出せるような気がするのだ。
そして私がサッカーに何かを託すとするならば、それは共通言語としてのサッカーである。
常に争いの種になりかねないサッカーだが、しかし理解し合うための手段として、サッカーに期待したいのである。
旧約聖書によれば、人類が高い塔を作り、神の領域に入ろうとした罰として、神は世界中の言語をばらばらにし世界を混乱におとしいれた。(「バベル」は混乱を意味するヘブライ語「バラル」に由来する)
そうした事があったとしても、人類は何かを共通理解とするために歴史的にもたくさんの努力をしてきた。
だからサッカーもそうしたものの一つなのだと信じたい。
サッカーの世界中への広がりは、世界史的な意味で重要であることは間違いないと思うが、たとえ人類に決定的救済をもたらすのは無理だとしも、何かの歯止めであることは、可能であると信じていきたい。