ベルギー代表の強さの秘密と可能性【中編】
前回の項でベルギーという国の複雑な歴史的背景により低迷が続いた事などを挙げ、2002年の日韓W杯以来の主要国際大会5大会連続の欧州予選敗退が続いていた理由として述べてまいりました。
今回は2010年にはFIFAランキング68位にまで沈んでいたベルギーが2年前からトップ10の常連となり、現在は2位にまで躍進してきた最大の理由である「育成」について説いていきます。そこには多民族国家であるがゆえのベルギー独自の育成改革がありました。
ベルギー独自の育成改革 まずは隣国から学ぶ
ベルギーは2000年のEURO(欧州選手権)をオランダと共催したものの、W杯とEURO史上初の開催国(共催国含む)で初めてのグループリーグ敗退を喫しました。1980年には欧州選手権で準優勝、1986年にはW杯ベスト4という世界にその実力を知らしめた「赤い悪魔」ベルギーにとってはそれが「恥」でしかありませんでした。同じ2000年のEUROでグループリーグ敗退したドイツもまた、「恥」と感じたこの敗退を育成改革のキッカケとし、ベルギーがW杯に3大会ぶりに出場したブラジル大会では見事に優勝を果たしたのも偶然ではないでしょう。そして、現在のFIFAランクのトップ2を彼等が占めている事もまた必然とも言えます。
しかし、全国300箇所に育成組織の拠点を作り、サッカー協会専属の指導者を派遣し、国が学業の週2コマを使って単位認定するなど、国家を揚げて取り組んだドイツとは違い、国土面積でドイツの10分の1以下、人口は8分の1であるベルギーはそんな大規模な改革は出来ません。また、人口の1割が移民である事もあり、1つのコンセプトに特化するだけでは逆に可能性を狭めてしまう事にも繋がります。
そこでベルギーがまず考えたのは他国で育成してもらって、成熟してから還元してもらう事。この頃のベルギーの育成環境は乏しいモノであったため、まずは代表チームの強化を考えた場合は必ずしも国産である必要はないと考えたのです。もともと首都ブリュッセルではオランダ語とフランス語の両方を公用語としており、多民族国家であったベルギー人は国境越えに抵抗がない国際人が多かった。その点も大いに利用したのです。
典型的な例は隣国であり、世界的に認められている「サッカー大国」でもあるオランダとの提携。顕著なのはベルギーの小クラブであるベールショットがオランダとの強豪クラブであるアヤックス・アムステルダムと1999年にユース育成の提携を結んだ事でした。
大まかな提携内容としては育成環境が乏しいベルギーのクラブに対して、アヤックスからコーチが派遣されてベールショットの育成組織を整備する上で、優秀な選手は優先的にアヤックスに加入させるという流れです。一見、アヤックス側(オランダ側)にとってだけ有利な提携に思えますが、もともとベルギー代表は多民族国家であり、自国リーグ所属選手でなく海外組が大半だった事もあり、ベルギー側にとっても「育成大国」オランダの指導者に育成組織を整備してもらえるのは有難い話でした。