6月4日に発表された現在のFIFAランキングを見てみると、トップはもちろん昨年のブラジルW杯優勝国のドイツが1775ポイントで独走中。そして、同大会の準優勝国であるアルゼンチンが1496ポイントで第3位につけています。
また、日本に大差で勝利し、同大会の得点王で”ニューヒーロー”と言えるMFハメス・ロドリゲスを擁するコロンビアが1435ポイントで第4位。5位のブラジルの1392ポイントを上回っています。
そして、現在FIFAランクトップの世界王者ドイツの下に位置する南米強豪国の間の2位に入るのは、なんとベルギーで1509ポイント。昨年からトップ10の常連となっていますが、ブラジルW杯では準々決勝でアルゼンチンに0-1の敗戦を喫してベスト8止まり。そもそもブラジルW杯がW杯出場は2002年の日韓大会以来の3大会ぶりだった彼等がどうやって現在の位置まで駆け上がって来たのか?について連載を書いて行きたいと思います。
プレミアリーグのファンの方々にとっては「プレミアリーグ所属経験のある選手でベルギー人ベストイレブンを作れ」というお題のサッカー談義は「何杯でも御飯が食べられるオカズ」だと思います。GKからして、チェルシーのテュボ・クルトワとリヴァプールのシモン・ミニョレというプレミア屈指のビッグクラブ在籍の守護神がおり、最終ラインにもマンチェスター・シティの主将であるヴァンサン・コンパ二、昨季までアーセナルの主将でバルセロナに引き抜かれたトーマス・フェルマーレン、センターバックながら攻撃力も魅力なトッテナムのヤン・フェルトンゲン、今季からの新加入ながら最後まで王者チェルシーとリーグ最少失点クラブを争ったサウサンプトンのトビー・アンデルワイレルトというDFなのに魅惑の4バックが揃います。
最前線にもエヴァートンのエースFWロメル・ルカクとアストンヴィラの絶対的エースFWクリスティアン・ベンテケという近年のプレミアリーグ2桁得点常連にして20代前半の2人がおり、中盤には今季のプレミアリーグ優勝の原動力でシーズンMVPも獲得したチェルシーのエデン・アザールを筆頭に、復活したマンチェスター・ユナイテッドのマルアン・フェライニ。アザールの弟のトルガン・アザールも今季はチェルシーからのレンタル移籍でプレーしたドイツのボルシア・メーヘン・グラードバッハで大活躍してチームの3位フィニッシュ&来季CL出場権の獲得に貢献。そのチェルシーからのレンタル移籍によりドイツで活躍した選手の中には今季のドイツブンデスリーガMVP選出濃厚のケヴィン・デ・ブルイネもいます。プレミアリーグ経験者だけでベルギー人のベストイレブンを作るのでも困るのですから、ベルギー代表のタレントの多さには恐れ入ります。
そこで強さについて語る前に、どうして今まで低迷していたのか?の説明が必要だと思います。よって、第1回は長らく続いた低迷の理由から説いていきたいと思います。
1. なぜ低迷期が続いたのか?
下記にベルギー代表の歴代W杯とEURO(欧州選手権)の成績表を掲載しています。特にEUROでは準優勝と3位という好成績を残しているものの、出場は4回のみ。W杯は全20大会中の12回出場しているものの、上記の通り日韓大会以降は出場しておらず、EUROと合わせると2002年以降のフル代表参加の2大主要国際大会に5大会連続で予選敗退しています。
もちろん、これは欧州予選の過酷さやレベルの高さを示す指標でもあるわけですが、天才MFエンツォ・シーフォを擁して1986年のW杯ベスト4を筆頭に黄金時代を築いていた通称(ナショナルチームの)「赤い悪魔」からすると寂しい限りで、予選敗退が主要大会5回連続と共に、オランダと共催した2000年のEUROでグループステージ敗退を経験。それまでW杯とEUROで開催国(共催含む)のグループステージ敗退がなかっただけに、かつての強豪国からすれば「恥」でしかありませんでした。
開催年 | 開催国 | 成績 |
---|---|---|
1930 | ウルグアイ | GS敗退 |
1934 | イタリア | GS敗退 |
1938 | フランス | GS敗退 |
1950 | ブラジル | 出場辞退 |
1954 | スイス | GS敗退 |
1958 | スウェーデン | 予選敗退 |
1962 | チリ | 予選敗退 |
1966 | イングランド | 予選敗退 |
1970 | メキシコ | GS敗退 |
1974 | 西ドイツ | 予選敗退 |
1978 | アルゼンチン | 予選敗退 |
1982 | スペイン | 2次L敗退 |
1986 | メキシコ | ベスト4 |
1990 | イタリア | ベスト16 |
1994 | アメリカ | ベスト16 |
1998 | フランス | GS敗退 |
2002 | 日本/韓国 | ベスト16 |
2006 | ドイツ | 予選敗退 |
2010 | 南アフリカ | 予選敗退 |
2014 | ブラジル | ベスト8 |
【出場】12回 【最高】ベスト4
(14勝9分18敗 52得点66失点)
開催年 | 開催国 | 成績 |
---|---|---|
1960 | フランス | 不参加 |
1964 | スペイン | 予選敗退 |
1968 | イタリア | 予選敗退 |
1972 | ベルギー | 3位 |
1976 | ユーゴスラビア | 予選敗退 |
1980 | イタリア | 準優勝 |
1984 | フランス | GS敗退 |
1988 | 西ドイツ | 予選敗退 |
1992 | スウェーデン | 予選敗退 |
1996 | イングランド | 予選敗退 |
2000 | ベルギー/オランダ | GS敗退 |
2004 | ポルトガル | 予選敗退 |
2008 | オーストリア/スイス | 予選敗退 |
2012 | ポーランド/ウクライナ | 予選敗退 |
【出場】4回 【最高】準優勝
(4勝2分6敗 13得点20失点)
多民族の連邦国家制に翻弄されるも 現在は国境越えに抵抗がない「強み」
ベルギーの低迷にはサッカー面だけでなく、国家としての複雑な歴史的背景にも関係があります。1830年に隣国のオランダから独立した当時のベルギーはフランス語のみを公用語としていた単一国家でした。しかし、20世紀に入ってからオランダ語の地位向上により、オランダ語を話すフラマン地方とフランス語を話すワロン地方の間で「言語戦争」なる対立が頻発。結果的に1993年にベルギーは連邦国家となりました。現在も首都のブリュッセルではオランダ語もフランス語も公用語としています。また、人口約1100万人の約1割はモロッコやトルコ、コンゴ民主共和国などからの移民でもあり、ベルギーはもともと多民族国家でもあります。
しかし、地理的にも欧州の中心であるベルギーは多民族・多文化を受け入れる国としても欧州連合=EUの中で「欧州のヘソ」と言われており、「EU大統領」とも言われるポストに相当する初代欧州理事会議長には、当時のベルギーの首相であったヘルマン・ファン・ロンパイ氏が就任するなど、「多民族国家」であるベルギー連邦立憲君主制国家はグローバル化が進む現在にあっては、かつての悩みが政治的・外交的な強みにも変化しました。
この変化こそがサッカーにも現れ、「EU加盟国のクラブにはEU加盟国籍の選手は外国籍扱いにならない」「契約満了の半年前から他クラブと自由に交渉ができる」などの自由移籍の権利が許可された1995年12月のボスマン判決もベルギー人選手には追い風になりました。もともと自国でオランダ語とフランス語が飛び交う文化に触れているベルギー人にとっては国境超えには抵抗がなかったため、ベルギー人選手の環境適応能力の高さも評価され始めたのです。
そうは言っても連邦国家となったのは1993年、ボスマン判決は1995年に起こった出来事。これでは2004年のEURO~2012年のEUROにかけての5大会連続の2大主要国際大会の予選敗退の説明にもならない部分があります。
その辺りは次回の「【中編】(仮タイトル)育成編」で触れたいと思います。しばしお待ちくださいませ。