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上写真は2010年のAegonフューチャーカップ決勝戦をフレームに収めた。赤白アヤックスのユニフォームの右端がクラーセン十七歳、左端ブーイは十六歳だった。その才能に目をつけたユヴェントスが’12年に獲得。前年のパナシナイコスからレンタル先は母国のクラブへと変わっていた。古巣との対戦が刺激になったのか、翌週のローダJC戦では正確なクロスで先制点をアシストすると自らの左足で追加点、更にダメ押しも頭で決めて2G1A=全得点に絡む大活躍。二十九歳で引退してしまった彼にとってフットボール人生最高の日と記しても過言ではないか。才能の宝庫アヤックスユースの中でもこの二人、クラーセンとブーイは出色の存在。藤田俊哉:Toshiya Fujita【1971年10月4日生】と名波浩:Hiroshi Nanami【1972年11月28日生】の清商/ジュビロ磐田の名コンビを彷彿とさせた。二列目から絶妙の飛び出して得点を決めるシャドーストライカーの藤田とクラーセン、卓越したパスセンスと精度の高いプレースキックは一学年下の名波とブーイ。異なる長所を活かした中盤の二枚看板だったがブーイに関しては恵まれた才能が開花したとは言い難く、早すぎる引退は惜しまれる。
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歴史の積み上げと繋がりを強調する指揮官
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Climbers 2025で登壇した森保一:Hajime Moriyasu【1968年8月23日生】監督。ヤンスと同年マツダに加入。ハンス·オフトがユトレヒトのTDを経て日本代表監督に就任すると初戦のアルゼンチン戦でA代表デビューを遂げたのが二十四歳の時。森保が強調したのは現在の日本代表チームの栄光は「日本のサッカーの歴史の積み上げにある」。この積み上げの四文字と繋がりの三文字が繰り返された。サンフレッチェではビム·ヤンセン:Wim Jansen【1946年10月28日生-2022年1月25日没】から複数のポジションを指示され’98年のオフトによる京都への引き抜き騒動も懐かしい。引退後は広島でU19代表コーチから経験を重ねる。日本人初のJリーガー監督として脚光を浴びると’15年にJ制覇。五輪代表監督とA代表コーチを経て現在に至る経歴。欧州での経験こそないが、常に欧州からの影響を受け日本サッカーの歴史が積み上がっていく現場に常に身を投じ肌で感じ吸収してきた人物。過去を積み上げてきた彼が日本代表の未来に向ける視線は他国の監督よりも僅かに先を視ている。
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第二次森保ジャパンにシフト以降、現場はコーチに任せ自身は一歩引いた立ち位置に。’22年カタール大会後、就任したのは名波浩コーチ。95年に順天堂大学卒業後、ハンス·オフトに守備意識を叩き込まれボランチに。’08年降格の危機にジュビロ磐田は隠居状態のハンス·オフトを招聘しており、仙台との入れ替え戦では当時エースの前田遼一:Ryoichi Maeda【1981年10月9日生】コーチも二試合フル出場している。
バルセロナ五輪世代の名波 アテネ世代の前田、ここにアイントラハト·フランクフルトのコーチ職と兼任ながら長谷部誠:Makoto Hasebe【1984年1月18日生】が加わった。プレーヤー目線でコーチ的な役割も担う長友佑都:Yūto Nagatomo【1986年9月12日生】への評価も高い。森保監督の言葉を借りるならば「選手に寄り添う」ことを重視した人選である。「選手を尊重して向き合う。教えてあげるではなく人として見る」このスタンスはユースの指導でも変わらない。勝負師としての一面とは別に常識人としての一面を兼ね備える二面性を優秀な指導者の条件として考えるならば、長崎日大高校卒業後十八歳でマツダ運輸に就職したサラリーマン·フットボーラー経験は見逃せない。現JFAナショナルチームダイレクターを務めるのは山本昌邦:Masakuni Yamamoto【1958年4月4日】氏。ヤマハ発動機でプレーした現役時代に初来日したハンス·オフトの指導を受け天皇杯を手にするとオフトが代表監督を任された’93のドーハ最終予選では西野朗:Akira Nishino【1955年4月7日生】氏と共に敵国を偵察するスカウティングを担当。森保監督との繋がりはこの頃まで遡る。
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