Foot ball Drunker 〔93〕visiting 『 Freethiel Stadion 』ベフェレン/ ベルギー    


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元フランス代表のジャン=マルク·ギユー:Jean-Marc Guillou【1945年12月20日生】は、現役引退後の1993年からコートジボワールへ。同国のクラブASECミモザでテクニカルディレクター、ヘッドコーチ(監督)マネージャーの肩書に加え、自腹での出資も。会長のロジェ·ウエニャ:Roger Ouégninと育成機関ソル·ベニ·アカデミーを創設し育成にも注力する。何千人もの中から選ばれたダイヤの原石を磨く為、全寮制の建物内で、平日は一般科目=数学·地理·歴史·物理と語学(英仏西語)、週末はヘルスケアに個別指導とメソッドが確立された結果は五年後に早くも目に見える成果を出す。1998年のアフリカチャンピオンズリーグを制覇したASECミモザはカップウィナーズカップ覇者エスペランス·チュニス(チュニジア)とCAFスーパーカップを賭けて対戦。十代の少年達は延長戦の末3-1の勝利で大陸二冠の偉業を達成してしまう。


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2001年KSKベフェレンのテクニカルディレクターにギユーが就任。ASCEミモザから5人の選手がベルギーの地を踏みしめる。ミモザ‐ベフェレン間では移籍金が発生しない契約。但しベフェレンから欧州のビッククラブへ売却された場合30%がミモザの取り分となる。ベフェレンは欧州各クラブスカウトが品定めする場を提供しEU圏内でプレーする免罪符(国籍を取得)を発行する窓口となる。しかしギユーは契約に納得せずミモザとの溝は深まる一方。ギューがコートジボワールに別のクラブを創立して決裂。

’02-03シーズンには新たに五人の選手がベフェレンに加入。同時にアーセナルから四人の選手も受け入れている。翌03-04シーズン更に六人と煽りを食ってベルギー人減少の歯止めが利かない。

2002年9月にはコートジボアールで南北の対立が表面化し、第一次内戦が勃発する。北はイスラム、南がキリスト教の宗教戦争はフランス軍介入で何とか沈静化した。不安定な情勢と低い就学率の同国でコートジボアールの少年達は、夢の別世界を頭に思い浮かべ、粗悪なグラウンドでボールを蹴る日々を過ごす。


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2004年5月23日ブリュッセルのボードウアン国王競技場。。

カップ戦ファイナルとなるクラブ·ブルッヘとKSKベフェレンの試合は同国のフットボール史でも極めて稀な珍事が起こるかもしれない状況。歴史的な瞬間を前に複雑な心境で四万人の大観衆が騒めく。この日のスタメンと配置が下図。


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途中出場の二人も含めコートジボアール出身。それも1981年~83年生まれの20歳前後のプレーヤー。唯一の白人選手イゴール・ステファノフスはアーセナルから貸し出しされたラトビア人。
ベルギー国内で生まれた選手が存在しないチームがベルギー杯を掲げるかもしれない。が欧州の銀杯に手が届くまで後一歩の所まで駆け上がったCAFスーパーカップウィナー達。

しかし一方のヤマを勝ち上がってきたのは強豪クラブ·ブルッヘ。チェコ人と二人のノルウェー人以外はすべてベルギー人で臨んでいる。同国の歴史あるタイトルを外敵から守る使命を背負い、モチベーションは最高潮。結果は述べるまでもない。
 
ベフェレンとミモザの橋渡し役のはずが、いつしか利己主義で途上国の若者を利用する悪質なビジネスモデルを考案したと批判されるギユー。成功を手にしたのは限られた選手のみ、オファーのない選手は行き場を失う。毎年コートジボアールからの新人は増えるが、売れない選手を保有している財政的な余裕などない。渡されたのは片道切符のみ。帰国もできずベルギーで途方に暮れる厳しい現実。

 国内リーグのインフラが未整備のコートジボアールでは、若い才能が欧州に売れる程、(国内の)集客動員が下がる悪循環。窃取する側とされる側の関係は、他のビジネスと何ら変わりない途上国のみが背負わされる悲劇。

そして2005-06シーズン、プロジェクトは呆気なく幕を降ろす。ジャンマルク·ギューに対しアビジャンの裁判所は横領罪の判決がくだされ収監と罰金が科せられた。FIFAの指示によりFA協会の取調べの結果、お咎めはなかったが名門アーセナルも汚点を残した。

さて、サークルブルッヘ戦。注目はコンゴ出身の89番ジュニオール·カバナンガ:Junior Kabananga【1989年4月4日生】。自国のクラブから20歳のカバナンガを発掘したのはアンデルレヒト。25歳でA代表初招集だから、けして早くはない。
190cmの長身で疾走する写真はぶれぶれのボケボケではあるが、そのスピードは伝わるはず。