Foot ball Drunker 〔138〕visiting 『 Arena Kielce』キエルツェ / ポーランド

試合は1-1の同点引き分けかと思われたアディショナルタイム、ヴラスティミル·ヨヴァノヴィッチ:Vlastimir Jovanovic【1985年4月3日生】の放ったシュートが四分前に入ったばかりのブラジリアンストライカー、ラファエル·ポルセリス:Rafael Porcellis【1987年1月19日生】に当たり、コースが変わって決勝点。結果アシスト役のヨヴァノヴィッチがボスニア·ヘルツェゴビナ代表として記念すべきデビューを飾った場所こそ東京の旧国立競技場。
急性脳梗塞で倒れたイビチャ·オシム:Ivica Osim【1941年5月6日生-2022年5月1日没】氏の後任、岡田武岡田 武史:Takeshi Okada【1956年8月25日生】新監督が前任者の母国代表チームに勝利した試合。スタメン出場の背番号4。当初のプラン通りなのかスコアに動きのない前半のみでピッチを退いている。


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キエルツェの試合に話を戻す。この日キエルツェと対戦したのはピアスト·グリヴィツェ。シロンスク県のクラブのディフェンダーはエベルト:Hebert Medeiros Dos Santos【1991年5月23日生】。2018年にジェフ市原に移籍。2シーズンを日本で過ごす事に。写真は試合後に同胞ポルセリエスとポルトガル語で会話するエベルト。

この2015年は、ハリルJAPNが始動。上写真の右端は、聞き覚えのないポーランド人選手の名前がプレーする中で肌の色の違いからか一際目立つキエルツェのトップ下はもしや。隣のAさんに恐る恐る声をかける。「オリビエール·カポ?」返事はYSE。この日先制点に繋がるパスを配給したオリビエール·カポ:Olivier Kapo【1980年9月27日生】はコートジボワールのアビジャン出身。


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2002年日韓大会での屈辱から新生レ·ブルーを任されたジャック·サンティニ:Jacques Santini【1952年4月25日生】新監督。彼の目にとまったのがAJオセールで活躍する当時21歳のカポ。02年10月のUEFAチャンピオンズリーグ=CL ではフランス代表三人を揃えたアーセナルを敵地で破る殊勲の先制ゴール。同年9月EURO予選キプロス戦でA代表デビュー。11月のユーゴスラビア戦では代表初ゴールを決めている。翌03年FIFAコンフェデレーションカップ·フランス大会で黄金のトロフィーを掲げた一員。初戦南米王者コロンビア戦はスタメン、決勝のアフリカ王者カメルーンとの延長戦では途中出場。ニュージーランド戦では1G1Aを記録をしており、唯一休養でペンチを温めたのが日本戦だった。


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このピアスト·グリヴィツェ戦を含む残り三試合。1G2Aで自身の花道を飾りスパイクを脱いだカポ。引退するやいなやアビジャンのヴリディにフットボール学習センター:CEAF) を創立する。ソシエテ·コートジボワール·ドゥ·ラフィナージュ:SIRの厚意により提供されたスペースには貧困地域を含めコートジボワール国内全域から5~18歳を対象までの少年を収容(※その後12歳から14歳までの少女も加わる。)されている。同センターにはカポ会長を補佐する四人のコーチ、医師と理学療法士、管理チームスタッフも含め13人が常勤。’22年には駐コートジボワールフランス大使公邸で久しぶりに報道陣の前に姿を現したカポ。フランス人ジャーナリストのマルティーヌ·デュクーロンビエ:Martine Ducoulombier創設の顕彰で表彰される晴れ舞台に立つ。「フランスとコートジボワールの関係は、経済や政治だけでなく何よりも国民間の友情、真の友愛にあります。」と式典でスピーチを述べたのはジャン·クリストフ·ベリアル:Jean Christophe Belliard 大使。今年に入りニコラス·リチャード: Nicolas Richard 氏が代表を務める車両レンタル企業LOXEAとのパートナーシップ締結も報じられセンターの活動も継続される。