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武藤と宇佐美の逆転現象を考える 日本独自の育成環境

 
 22歳の同級生という事もあって武藤嘉紀と宇佐美貴史は今後も比較される対象になるでしょう。特に彼等は共にクラブのアカデミーで育ちながらも、真逆のキャリアを辿りながら現在に至った2人。そこには日本独自の育成環境と、それが逆転もあり得る可能性も示しています。

 宇佐美は中学年代のジュニアユースからガンバ大阪のアカデミーに加入。ジュニアユース2年、ユース2年で“飛び級昇格”を果たし、16歳の時からプロ契約。2009年シーズンからトップチームに昇格。プロ2年目にはガンバ大阪が外国籍FW5人を抱えながら全員が負傷や戦力外となった事もあり、宇佐美と平井将生が抜擢されて定位置を獲得。出場26試合で7ゴールを挙げる活躍により、序盤で出遅れたチームのJ1リーグ2位(勝点62)フィニッシュに貢献。宇佐美自身は最優秀ヤングプレーヤー賞を受賞。同年夏に日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニ氏が毎試合のように大阪の万博記念競技場まで足を運ぶ熱の入りようでした。

 そもそも宇佐美は中学生の頃から年代別代表のエースとして知られる超エリート選手。2009年の17歳以下のワールドカップの段階ではブラジル代表FWネイマールよりも高い個人技を披露していました。2011年にはフル代表にも選出され、直後に欧州屈指のビッグクラブであるドイツのバイエルン・ミュンヘンに移籍。リーグ戦出場は僅か3試合と出場機会には恵まれないながらも、オランダ代表のアリエン・ロッベンや、フランス代表のフランク・リベリという世界最高峰の選手との日々のトレーニングを経験。

 翌年には出場機会を求めて同じドイツの新進気鋭のクラブであるホッフェンハイムへ移籍。リーグ戦20試合出場2ゴールと結果は残せませんでしたが、独自のフィジカルプログラムを組んでもらって効果を出し、50mを単独でドリブルで持ち上がるような場面は何度も見せていました。

超エリート選手を大学サッカー選手が追い抜く

 武藤は宇佐美同様に中学生年代でFC東京のアカデミーであるU15に加入。小学生の頃から同クラブのスクールには入っており、同アカデミーの高校生年代に当たるU18にも昇格。アタッカーとして活躍していたものの、U18ではフィジカル的な強さや運動量の豊富さを買われて左サイドバックへコンバートされた事も。最終的には本人がアタッカーでの起用を直談判して現在のプレースタイルを確立していったようですが、このサイドバックとしての経験も今の彼を支えているのでしょう。

 高校卒業と同時にトップチームへの昇格の話もあった武藤は、それを「プロでやるための力がない」と断り、慶應義塾大学への進学を選択。近年、Jクラブのアカデミー以上にJリーグへ即戦力となる選手を輩出し続ける大学サッカー界で自身を磨くことを武藤が選択したのが2010~2011年の年末年始でした。つまり、同時期、宇佐美はJリーグの最優秀ヤングプレーヤーを受賞し、半年後には代表初招集、バイエルン移籍を果たす時、武藤は慶応大学に入学したばかりだったのです。

 プロ入りを断って地道に自身の課題に打ち込んだ武藤は、強靭なフィジカルを鍛え上げた上で決定力も磨き、大学サッカー界で名を挙げました。高校生時代も2種登録を経験したFC東京で特別指定選手としてJリーグにデビューしたのが2013年。大学3年生の夏でした。宇佐美はドイツでの2年間のプレーを経て、古巣ガンバ大阪への復帰を決めた頃でした。

 宇佐美が復帰したガンバ大阪で18試合19ゴールという驚異的な結果を残してJ2優勝を飾った頃、武藤は2014年から大学4年生にして正式にFC東京の選手となる事が決定。大学サッカー部を退部して大学生Jリーガーとしてプレーする事を選択しました。

 FC東京は2014年からJリーグ史上初のイタリア人監督としてマッシモ・フィッカデンティ監督が指揮を執っており、フィジカルが強く守備にも献身的な若手アタッカーである武藤を大抜擢。特にブラジルW杯終了後に得点を量産し始め、13ゴールというJリーグ新人選手最多得点タイ記録を挙げる驚異的な活躍で期待に応え、遂にはハビエル・アギーレ氏が就任した新生日本代表に招集され、今年1月のアジアカップメンバーにも選ばれ、現在まで日本代表キャップは10を刻みました。

 宇佐美は2014年に入ってシーズン開幕直前に長期離脱。W杯前に戦線復帰し、チームの後半戦の驚異的な追い上げの原動力としてチームの3冠に貢献したものの、2012年以来の日本代表復帰はありません。それどころか、未だ代表キャップ数がゼロ。超エリートだった宇佐美を、年代別代表の経験が一切なく、プロを断って回り道を経験した武藤が逆転するという日本独自の育成の光と影を映すモデルケースにもなっているのです。

Jクラブユースの育成力が不足しているのか?大学サッカーの立ち位置は?

 日本サッカーの育成は世界とは全く異なっています。特に欧州では各クラブのアカデミーや地域のクラブチームでサッカーをしているのに対して、Jリーグのアカデミーが整備された現在でも、日本では高校サッカー部や大学サッカーからもJリーグへの選手供給が続いています。

 以前、宮市亮が中京大中京高校からイングランドの名門クラブであるアーセナルに加入した際、現地の記事で、「宮市は可哀想な選手だ。類まれな才能を持ちながら、彼は学校教育のクラブ活動でしかサッカーを指導されて来なかった」と紹介されました。この時点では学校授業の一環としてプレーしていたのみ、と思われていたのです。しかし、その記者は日本の育成事情を取材した上で、「自宅に帰らずに学校の中で本格的なスポーツができる理想的な環境」と評価していた事がありました。日本では高校クラブを否定する動きもあるのでしょうが、欧州ではこれを評価している一面があります。クラブの指導者は学業の成績や普段の生活は目にしません。そういう部分から心身にまつわる指導アプローチが可能な学校クラブの育成環境を称賛しているのです。

 とはいえ、現在は下部年代の代表選手がJリーグのアカデミー選手で占拠され、高校サッカー部からのJリーグ加入選手は1桁台になる傾向がある現状はどういうことなのか?はたまた、武藤のようにJクラブのアカデミー選手がプロ入りを拒否して大学サッカーを経由してプロ入りを果たす選手も多くなっています。