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第45話はクラクフのユゼフ·ピウスツキ·スタジアム。収容人員は一万五千人。訪問したのは2013年の師走。ちなみにクラクフ最大のスタジアムは、名選手の名前を冠するスタディオン·ヘンリク·レイマン。こちらは2010年に改装済み。本拠地として使用するクラブはヴィスワ·クラクフ。正直訪問前はワルシャワの国立競技場ならいざ知らず、この偉人の名前を関するには不相応、器の規模にもの足りなさを感じていた。
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橋も丘も広場も通りも だったらスタジアムも
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ところがこの古都。街を歩けば兎に角ピウスツキだらけ。ヴィスワ川に架かるのは1925年に着工されたピウスツキ橋。クラコフスカ通りを経由してカジミエシュ地区とポドグジェ地区を繋いでいる。ライトアップされた夜景も美しい。ワルシャワでの没後、遺体はクラクフのヴァヴェル大聖堂に埋葬されているだけあって、ピウスツキの家、ピウスツキの丘、極めつけは庭園環状道路とブロニャ広場を結ぶピウスキ通り。第一次大戦勃発時ピウスキは軍事企業を創設してこの場所から進軍の第一歩を踏み出している。通りを進むとピウスツキと四人の兵士、そして月桂樹の葉で包まれた高さ8.5メートルの旗柱からなる巨大彫刻群。制作者は1964年からポーランド国内のみならず世界各国で記念碑的な彫刻作品を発表してきたチェスワフ·ジヴィガイ:Czesław Dźwiga【1950年6月18日生】。先々月には生誕七十五周年を祝う回顧展がシュチェパンスキ広場の芸術宮殿で催されたばかり。
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実は記念碑をブロニヤ広場に建てる構想そのものはピウスツキ存命中からあったのだが実現には至らず。その後第二次大戦終了後新たな共産党政権が樹立されると、反ロシア反共産主義の姿勢を生涯貫き通したピウスツキに対しての肯定的な言及は厳しく禁じられる。その間もポーランド国民の間ではピウスツキを支持する感情が沸々と高まる一方。
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クラクフでの試合観戦を終え翌朝にはベルリンへと空路移動。冷戦終結と聞いて頭に浮かぶのは'85年ソ連の〔ペレストロイカ〕に始まり、四年後ベルリンの壁が崩壊するまでの流れ。しかし1980年9月17日、政府の食料価格引き上げ等への抗議をすべくグダニスクで結成された労働組合『連帯』が東欧民主化の先駆けである。遂に迎えた東欧革命、それから更に約二十年、独立回復九十周年の前夜である2008年11月10日に念願の除幕式が行われた。
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あの日あの時は■2013年12月9日エクストラクラサ第20節 KSクラコヴィア対ザグウェンビェ·ルビン。約十一年前のこの試合がポーランド国内リーグ初観戦。入場者は六千五百人とスタジアムの半分以上は空席。それでも東欧らしいサポーターの狂喜と熱気に感動したのを覚えている。まず印象に残っているのがこのホットドッグ。このスタジアムに限らずポーランドの定番がこの形状。パン生地を巻き付けるのではなく、最初から穴空きのパンにソーセージを差し込んでいる。
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ポ-リッシュホットドッグと氷点下で飲むアイスビール
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ビールカップ片手に初老の男性に声をかけられた。一瞬危ないヒトかと身構えたがそこは親日家の多い国。そもそも自分のほうが余程危ない風貌である、日本人だと知った途端饒舌に。「クラコヴィア ファーストチャンピオン」と連呼しているのは、'27年の全国リーグ(公式)で優勝したのはライバルのヴィスワだったが'21年に非公式大会で国内王者になった事をアピールしているのだろう。ご機嫌で途中からポーランド語になっているのも忘れ侍り続ける。まったく理解できず笑顔で相槌をうっていただけなのだが、気に入られたようでビールを御馳走してもらった。国内でも南部とはいえ日が暮れればマイナスの寒さの状況でビールを口にしたのもこの時が初めてだったか。郷に入れば郷に従えである。
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注目の試合は武骨なスタイル。クラコヴィアとはクラクフのラテン語読み。しかしラテンのようなリズミカルなドリブルや華麗な個人技はない。ゴール前では激しく屈強な身体をぶつけ合うがアイディアが乏しい。このままスコアレスで終わるのかと諦めかけた後半に二十分、セットプレーでスコアが動く。
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