象徴的なエピソードがある。前任のヴァレリーはある試合で前半の30分過ぎに主力FW藤本主税をベンチに下げた。ベンチに戻って来た藤本は不満を全身で表現し、ペットボトルを蹴り上げてはコーチの手を払いのけた。それまで結果があまり出ていない時期でも、「責任は全て監督である私にある」と言い続けていたヴァレリー監督は、「藤本はチームのためではなく、自分のためにプレーしていた」と初めて名指しで選手個人を批判した。そして、意地を張った藤本はレギュラーから外された。その後、チームは苦戦に陥る中、日本代表戦による中断期間に突入。その時だった。サンフレッチェ広島専門のオフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』の中野和也氏によるヴァレリー監督のインタビューが行われている時、藤本が監督のいる部屋を訪ねた。中野氏によると、その時のヴァレリー監督の表情は、「試合に勝った時にも見せた事がないほどの温かみのある笑顔」だったそうだ。その“父親”ともとれるヴァレリーの見せた笑顔は、ミハイロ・ぺトロヴィッチ(現・浦和レッズ監督)や森保一といった後続の監督にも共通する部分であると感じる。
結局、ガジエフはせっかく育った下部組織出身選手もレギュラーから外し、その上でヴァレリー時代の組織的なサッカーもぶち壊した末に辞任。ヴァレリー時代のコーチを務め、サンフレッチェユースの監督としても森崎兄弟や駒野を指導していた木村孝洋氏が“クラブ史上初の日本人監督”に就任するも、失われた半年間を巻き返すには時間が足りなかった。クラブを挙げて、「ジュビロのようなパスサッカー」を目標に育成と強化に取り組んだが、そのジュビロ磐田が第1ステージも第2ステージも制した完全優勝を成し遂げた2002年、逆にサンフレッチェはJ2に降格した。
しかし、クラブ史上初のJ2を迎えるに当たって、前年の夏に大きな”補強”があった。日本のユース代表の指導者や下部年代のカテゴリーを統括してきた小野剛氏のヘッドコーチ就任だった。後に日本代表の技術委員長にもなる彼がヘッドコーチとして就任してからチームは盛り返し、クラブはJ2降格が決まった後の天皇杯から監督に昇格させた。そして、その天皇杯をベスト4にまで進出させたのだ。
サンフレッチェの強化部に在籍歴があった小野監督が取り組んだのは、それまで外国籍監督が続いていたサンフレッチェのサッカーを“日本化”する事だったかもしれない。ある意味では外国籍監督に頼りきりだった現場の細部を日本人指導者の眼というフィルターを通して整理したのだ。
2003年のJ2でサンフレッチェは苦戦したが、その“日本人的解釈による広島スタイル”は理想よりも現実性に割合が割かれながらも、森崎兄弟と駒野を軸とするなど下部組織出身の若手選手を数多く抜擢する試行錯誤の末に日の目を帯びた。初のJ2は2位ながらも自動昇格。1年でのJ1復帰を果たした。
いざ、再びのJ1へ。しかし、その後のサンフレッチェも激動の歴史に翻弄されてしまうのだ。
(続く)