十九世紀までは分裂した小国が乱立状態のイタリア。明治維新政府が近代国家の道を一歩踏み出したのとほぼ同時期にドイツ帝国が誕生しイタリアも統一=リソルジメントを成し遂げる。Risorgimentoとは再興または復興という意味。ティラナを歩いてみるとイタリア風の街並にムスクが溶け込んでいる不思議な光景。
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1913年にオスマンから悲願の独立の際、アルバニア王国創立に助力したのがオーストリア=ハンガリー帝国とイタリア王国。その後政府状態になると’16年、墺伊更に仏軍も加わり占領してしまう。続く第一次大戦は、中部アルバニアの併合を企むイタリアが参戦。1918年にフランスとイタリアはアルバニアからオーストリア·ハンガリー軍は撤退させる。この時ギリシャも南部アルバニア併合を要求したことで、結果アルバニアの独立が再び認められる。現在アルバニアのヴロラからイタリアレッチェ近郊のブリンディシ港までの区間フェリーが運行しており、その距離は百三十キロならば東京~伊豆大島区間と十キロしか違わない(大島までは120km)。イタリアがこの国に執着したのは解らなくもない。バルカンの中でも異質な古代イリュリア人の子孫たちが暮らすアルバニア。オスマンに支配されても独自の民族の誇りとアイデンティティを失わない国民を操ることで、北東に接したスラブ民族国家郡からの驚異も薄らぎ、南のギリシャ人にも睨みを利かせられる。
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蜜月から決裂 ゾゴリとムッソリ-二の埋められなかった溝
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大統領のアフメト·ムフタル·ゾゴリ: Ahmet Muhtar Zogolli【1895年10月8日生 -1961年4月9日没】はイタリアに従うことでティラ-ナ歴史地区の複合改修計画を1920年から実行。設計·プランニングは、ファシズム建築を代表するアルマンド·ブラシニ:Armando Brasini【1879年9月21日生-1965年2月18日没】をロ-マから招き入れ任せている。テベレ川北部に架かるフラミニオ橋や、ヴィットリアーノにあるMuseo Centrale del Risorgimento:リソルジメント国立博物館など、ロ-マを散策すれば至るところで彼の作品に出会える。マニエリスム様式とヨーロッパ·ルネサンス様式でティラナの広場と大通りを設計したのに対して苦言を呈して修正を促したのがゲラルド·ボジオ: Gherardo Bosio【1903年3月19日生-1941年4月16日没】。1926年にローマで工学の学位を取得後、故郷フィレンツェに戻り大学で建築を学んだ彼は’41年に癌を患い大学卒業後僅か十年で鬼籍に入る。’39年からティラ-ナでは現在の首相官邸、ホテルダジ“Dajti” など手掛けているが短命ゆえにその仕事は目映い光を放った天才。
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’32年アルマンド·ブラシニの後任として赴任したのはフロレスターノ·ディ·ファウスト:Florestano Di Fausto【1890年7月16日生-1965年1月11日没】。市中心部とスカンデルベルグ広場周辺の巨大ビル群をネオルネッサンス様式で構成した。国王ゾグ=ゾゴリ直々の依頼でドゥラスとスクタリ、二つの王宮も設計している。1928年に大統領から国王となったゾグことで立憲君主国へと変貌を遂げると両国関係の雲行きが怪しくなる。ベニート·ムッソリーニ:Benito Mussolini【1883年7月29日-1945年4月28日没】からすればアルバニアはイタリアの一部である認識しているから金も人材も提供した。しかし異民族の属国扱いを嫌がったゾグ王はユ-ゴスラビアとの外交を樹立し独立国家をアピール。これに激昂したムッソリーニは、’39年アルバニア侵攻しゾグ王は王妃とともに国外へと脱出する。
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