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「王者」サンフレッチェ広島の歴史〜曲がり角に現れた”絶対エース”と”広島サッカーの父”

 1994年の第2ステージ優勝以降は2桁順位が続いていたサンフレッチェ広島は残留争いをする事が常態化していた。

 しかし、アーセン・ヴェンゲルやイビチャ・オシム級の実績や魅力的な攻撃サッカーを植え付ける手腕を持つヴァレリー・二ポムニシ監督が指揮した2001年シーズンの第2ステージは1994年以降では最高位となる3位となっていた。何より、ヴァレリー監督が植えつけた攻撃サッカーが日を追うごとに浸透し、シーズンが進むにつれて上昇カーヴを描いていた。下部組織出身のMF森崎和幸とDF駒野友一が10代でレギュラーに抜擢され、最終ラインから丁寧にパスを繋ぐスタイルが完成していたのだ。本当にスタイリッシュで格好が良かった。それはリーグ優勝が可能になった近年よりも見栄えは上だったかもしれないと言えるほどだった。

 しかし、ヴァレリー監督が中国の山東魯能に引き抜かれて1年で退任すると、その攻撃サッカーは消え失せてしまった。後任のガジ・ガジエフ監督はロシア国内ではロシアリーグ最優秀監督賞を受賞するなど、ヴァレリーと同クラスの名将だった。ただ、彼はヴァレリーが植えつけた攻撃サッカーの流れをぶち壊した。せっかく育った下部組織出身選手もレギュラーから外し、その上でヴァレリー時代の組織的なサッカーもぶち壊した末に辞任。ヴァレリー時代のコーチを務め、サンフレッチェユースの監督としても森崎兄弟や駒野を指導していた木村孝洋氏がクラブ初の日本人監督に就任するも、失われた半年を巻き返すには時間が足りなかった。クラブを挙げて、「ジュビロのようなパスサッカー」を目標に育成と強化に取り組んだが、そのジュビロ磐田が第1ステージも第2ステージも制した完全優勝を成し遂げた2002年、逆にサンフレッチェはJ2に降格した。

 クラブ史上初のJ2を迎えるに当たって、日本のユース代表の指導者や下部年代のカテゴリーを統括してきた小野剛氏がヘッドコーチを経て、監督に昇格させる人事が行われた。小野監督により、それまで外国籍監督が続いていたサンフレッチェはより“日本化”される事になった。

高木・久保に続く日本人ストライカー到来~”絶対エース”佐藤寿人

 2003年のJ2でサンフレッチェは苦戦したが、その「日本人的解釈による広島スタイル」は理想よりも現実性に割合が割かれながらも、森崎兄弟と駒野を軸とするなど下部組織出身の若手選手を数多く抜擢する試行錯誤の末に日の目を帯びた。初のJ2は2位ながらも自動昇格。1年でのJ1復帰を果たした。

 1年でのJ1復帰後、小野監督に率いられた2004年シーズンはリーグ戦の全30試合の半分近い13試合に引き分ける。堅守を武器としながら勝ちきれないという解りやすい現象が起きていた。実に「J2からの昇格初年組」らしい課題を解消すべく、小野監督がユース代表時代に指導していた、“あのストライカー”がやって来た。

 プロ入り後は出場機会に恵まれていなかったが、2003年に加入したべガルダ仙台でチャンスを掴み、2003年にJ1で9ゴール、2004年にJ2で20ゴールを積み上げていたFW佐藤寿人だ。久保竜彦がJ2降格により、「広島の希望を吞む事」を条件に、満額の移籍金2憶5000万円を残してチームを去って以来、初めて現れた本格派ストライカーだった。佐藤が移籍初年度にJ1で日本人最多の18ゴールを記録し、2005年は一時は優勝争いに絡む7位で終えた。J2時代から下部組織出身の若手選手を軸にしたチーム作りに、佐藤のようなピンポイントで弱点を強化する、文字通りの“補強”が形になって来ていた。そして、これは現在も継続されている編成の上手さと言える。

 高木琢也、久保に次ぐ“3代目”の「絶対エース」となった佐藤は現在まで12シーズン連続で2桁ゴールという前人未踏の記録を更新し続けており、昨季の明治安田生命J1リーグ第2ステージの最終節・湘南ベルマーレ戦ではチームをステージ優勝と年間勝点1位を決めるゴールを記録。自身のJ1通算157得点目はジュビロ磐田で得点を量産した元日本代表FW中山雅史(現・アスルクラロ沼津)が持つJ1最多得点記録に並んだ。高木、久保、佐藤と日本人FWが継続してエースを務めるクラブの方針ももっと称えられてしかるべきだ。

再びの曲がり角に現れたペトロヴィッチ監督

 しかし、2006年は序盤から全く勝てず。リーグ8試合目を終えて3分5敗。未勝利の責任をとって小野監督が辞任すると、またしても「現場頼みの広島スタイル」だったのか?と、2002年の時と同じような懸念を持ってしまいかねない事態に陥った。

 そんな時に“その人”はやって来た。ミハイロ・ペトロヴィッチ(現・浦和レッズ監督)というオーストリア人指導者はオシム監督時代のシュトルム・グラーツ(オーストリア1部)でコーチを務めた経歴も持っていた。当時のJリーグでは創設以来低迷していたジェフユナイテッド市原(現・千葉)で常時リーグ優勝争いを展開し、ナビスコカップでクラブ史上初のタイトルをも獲得するに至ったオシム監督による、「考えながら走る」攻撃サッカーが評価されていた。オシムは2006年に日本代表監督にも招聘されるほど、日本サッカー界の求心力を集めていた。

 2006年シーズンの途中にサンフレッチェの監督に就任したペトロヴィッチは、ボランチ1枚の<3-5-2>を採用。MFには青山敏弘、柏木陽介(現・浦和レッズ)といった若手をレギュラーに抜擢。時には下部組織在籍時に天才MFと称されたMF高柳一誠(現・ロアッソ熊本)も組み込まれたMF陣はとにかく若く、運動量も多かった。オシムの「考えて走る」サッカーに似たモノがサンフレチェにも多く見られた。その中で後方からのゲームメイクを託されたMF森崎和幸は3バックの右ストッパーとしてコンバートされた。それもまた、ジェフや日本代表での阿部勇樹(現・浦和レッズ)に似た要素だと筆者は感じていた。