44〗Stadio Arena Garibaldi – Romeo Anconetani / ピサ

フォンタナの本社は創業者氏の地元ルッカにある。ピサ共和国同様城壁に囲まれた都市国家は、メディチ家に屈し領有される他国を尻目に自治を守り通した。ピサの城壁は現在もほぼ完全に残されており、中央駅から歩いて三十分程度の距離。
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第二次大戦中イタリア空軍とドイツ海軍のために設計された幻の軍用時計を再現したU-BORT。視認性や耐久性、防水性能に優れた高性能ウオッチは根強い人気。
前話ではFIFAワールドカップ米国大会でイタリアの恋人を襲った悲劇を思い返した。この試合激しく火花を散らし歓喜の瞬間を勝ち取ったのは、紫のユニフォームに袖を通し共に切磋琢磨したかつての同僚だった。そのプレースタイルは野が広く、精度の高いロングフィードで攻撃を司る一方、絶妙のポジショニングで中盤の波堤を務め、味方にも怒号を浴びせる鬼曹。’95年に初めて見たひとりのフットボーラーの記憶が蘇るのは、斜塔の街にいるからだろうか。ピサとフィレンツェ ペスカーラと計五シーズンは伊国で過ごし、独シュツットガルトのサポーターからは絶大なる支持を受けたのがカルロス·ドゥンガ:Dunga【1963年10月31日生】。本名はヴェリ。ミラノで同名のメンズファッションブランドを見掛けたが、彼の故郷リオグランデ·ド·スール州のポルトアレグレは、ドイツ、日本、そしてイタリア系移民が多い港湾都市。ドイツ人以上にドイツらしいプレーを披露したセレソンの主将はブラジル人からは不人気だったのも頷ける。
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カバ-写真のファイルコピーは1987年9月13日のセリエA開幕戦。青黒縦縞のドゥンガとその右側の赤黒縦縞はカルロ·アンチェロッティ:Carlo Ancelotti【1959年6月10日生】。新旧セレソン監督のマッチアップ。1981年にアズーリデビュ-しており、プレーヤーとしての全盛期は全四試合にフル出場し四強進出に貢献した’88年のUEFA欧州選手権の頃だろう。’90年のワ-ルド杯ではベンチを温めている時間が長く記憶にない。’92年に怪我を理由に三十三歳の若さで引退を決意している。一方ドゥンガはこの年の五月A代表に初招集されている。コバアメリカでは出番なく代表に定着するのは90年代になってから。現役時代のアンチェロッティは闘争心むき出しでチームを引っ張るリーダータイプ。スピードや身体能力で劣るものの、勤勉で粘り強い性格が守備面では活かされておりボール奪取率は抜群。攻撃面では視野の広さとエリア外からの正確なシュートが持ち味。
日本でそのプレーが披露されたのは89年のトヨタカップ=ナシオナル·メデジン戦の一度きり。本来は八番を背負うプレーヤーだったろうに、そこにはフランク·ライカールト:Frank Rijkaard【1962年9月30日】がいたから十番アンチェロッティは一列高い位置に構えた。TV観戦ではあるがリアルタイムでのプレーを視聴したのは最初で最後。 結局“生”でそのプレーを見る機会はなくジュビロ磐田時代のドゥンガのプレーを観ながらアンチェロッティの姿と重ねていた。

そのドゥンガが去ると二部降格し斜塔の街のクラブはカルチョの世界で斜陽の時を過ごす。現指揮官はフィリッポ·インザーギ:Filippo Inzaghi【1973年8月9日生】。アンチェロッティ·チルドレンからピサ監督は二人目。ジェンナーロ·ガットゥーゾ:Gennaro Gattuso【1978年1月9日生】が三部降格したクラブで昇格のミッションを請け負ったのは2015年。

コソボに帰った守護神は今

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第44話はの本拠地アレーナ·ガリバルディ·ロメオ·アンコネターニ。カバー写真のプレスカードは当時ACピサ1909-エラス·ヴェローナ戦。、渡欧中最寄りの駅や宿からスタジアムまでのアクセスは今やスマフォに頼れば何の苦労もない。然しピサに至ってはスマフォさえも必要なし。観光客の波に乗って斜塔まで行けば、すぐ東側に照明灯が見える位置関係なのだから。
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結果こそスコアレスドローに終わったとはいえは二部レベルで頭ひとつ抜け出していたヴェローナ。格上相手にゴールを死守したのはサミル·ウイカニ:Samir Ujkani【1988年7月5日生】。 年エンポリとの契約を満了し現役生活にピリオドをうつ。現在はコソボ代表のスポーティング·ディレクターを務めている。