先日、ドイツの強豪レヴァークーゼンからイングランドの名門であるトッテナム・ホットスパーに3000万ユーロ(約41億円)というアジア最高額の移籍金で加入した韓国代表FWソン・フンミンについて書いた筆者の記事には、アジアとドイツが生んだ最高傑作という名の下に、“日本サッカーの父”であるデットマール・クラマーさんについても執筆したところ・・・。
まさかの・・・そのクラマー氏の訃報。哀悼の意を表します。
と共に、それを拍手で称えるかのようにソン・フンミンはヨーロッパリーグとイングランド・プレミアリーグで連続得点。それも彼の真骨頂である抜群のスピード抜で縦に突破してのドリブルシュートからのゴールなど、今季リーグ無得点のイングランド代表FWハリー・ケインより際立つ存在感を示しています。
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“日本サッカーの父”クラマー氏の訃報~
1964年の日本・東京五輪招致が決定していたため、代表チームの強化のために「サッカーの本場である欧州から外国人指導者を」と決めた日本蹴球協会(当時は”サッカー”ではなかった)が西ドイツサッカー連盟(当時は”西”ドイツだった)に依頼書を送った事からスタートし、西ドイツ協会からは代表チームのアシスタントコーチだったクラマー氏が紹介され、1960年に日本代表チームのコーチに就任。
ただし、その指導法とはトラップの方法から教えるというような子供を相手にするかのような練習メニューだったと言われています。後に、ワンタッチ(パス)を強調するような指導になったのも、ヨハン・クライフの理論である「ワンタッチでプレーできる選手は非常にいい選手、ツータッチはまあまあ、スリータッチは悪い、それ以外は論外」という考え方ではなく、あまりにも当時の日本の選手の技術が低かったため、とも言われています。
それでも、基礎技術を伸ばし、基本戦術が浸透する事でチーム力を積み上げる事に成功した日本は、1968年にメキシコ五輪での銅メダル獲得に繋がりました。クラマー氏の指導法は確実に日本サッカー界に活かされ、「強いチーム同士が戦える競争力の高いリーグ戦を作れ」という教えはJリーグの創設にも繋がりました。その他にも指導者の育成にも一石を投じられたと聞きます。
後の1990年代になってオランダ人指導者のハンス・オフト氏が日本代表監督になった時もそう。クラマー氏と同じように基本練習から始まり、「アイコンタクト」や「トライアングル」といった小学生を相手にしたような練習に、ラモス瑠偉(現・FC岐阜監督)ら主力選手から不満の声が多かったそうですが、基本技術や基本戦術が整理された日本代表は急に「パスが回り始めた」「俺たちパスサッカーしてるよ」となり、1992年のダイナスティカップ(現・東アジアカップ)とアジアカップで優勝。日本代表にとって国際大会初タイトルの獲得に繋がりました。
クラマー氏もオフト氏も日本人の特徴を活かした上での指導法だったように思います。しかもそれは長所だけではなく、短所も含めて。
歴史的勝利を上げた”エディジャパン”も、なでしこも提唱する日本人の特徴を活かす戦い方
そして、先週末に開幕したラグビーW杯の初戦で通称“スプリングボクス”こと南アフリカを相手に勝利したラグビー日本代表。エディー・ジョーンズ監督(正式な肩書きはヘッドコーチ)はラグビー界では誰も知る存在。サッカー界で言えば、アーセナルのアーセン・ヴェンゲル級の名将ですが、彼の母親が日系2世であり、彼はハーフでもあります。また、東海大学のコーチ経験や、日本のトップリーグ所属のサントリーサンゴリアスでの指導経験があって日本代表監督に招聘された経緯もあり、誰よりも日本人の特徴を知り尽くしていたと言えます。
体格的に、フィジカル的に劣る事で、「どうせ守り切れない」からこそ、日本人の技術の高さを活かし、運動量の豊富さを活かし、それでいて大和魂が備わった敢闘精神は低いタックルを徹底する”ジャパン・ウェイ”で攻め切るスタイル。優勝候補の南アフリカを相手にハンドリングミスがほとんどなく、相手が倍以上もミス擦る中で、短いパスを回して素早い展開を仕掛けつつ、最後は13人(ラグビーは15人制)でモール(簡単に言うと後ろ向きでは相手がボールに触れないため、その状態でその選手を押す事で前に進む)で突っ込むリスクを賭けた攻撃も披露しました。ただ、これはエディー監督がオリジナルであったわけではありません。
実は1950年から3度に渡って早稲田大学ラグビー部監督を務め、1966年から1971年まではラグビー日本代表監督も務めた大西鐡之祐(おおにし てつのすけ)氏が作り上げた「接近・展開・連続」が原型です。これはサッカー日本代表監督として2度目の就任期間に岡田武史氏も「日本サッカーの”日本化”」をテーマにした時に用いた言葉としても知られています。
また、“ジャパン・ウェイ”はなでしこジャパンのスタイルにも似た哲学を持っているように感じます。共に、体格やフィジカル面での不利・不足を嘆くのではなく、短所も含めて日本人の特徴を活かしたがゆえの“日本化”に成功した例だと言えます。
日本代表はアルジェリア代表ではない 日本人選手は黒人選手でもない
技術を徹底的に磨いてミスを減らし、主導権を握り、球際は“工夫”を凝らした上での強さを要求する。岡田武史監督もそうでしたが、イビチャ・オシム監督もそう。おそらく、現・浦和レッズのミハイロ・ペトロヴィッチ監督や、セレッソ大阪を3度に渡って率いて香川真司や乾貴士、清武弘嗣、柿谷曜一郎を育て上げたレヴィ―・クルピ(現アトレティコ・ミネイロ)監督もそう。