南米色の濃いJリーグにあっては異色の欧州式組織サッカー
1993年に開幕したJリーグ。当時は小学生だった大阪出身の筆者は小学校から帰宅すると靴を脱がずにランドセルを玄関に置き、近所の空き地で数人の友人と野球を楽しむ野球少年だった。しかし、初めてJリーグ観戦を経てからはサッカー少年になっていった。当時の日本代表のエースで、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)所属のカズことFW三浦知良(現・横浜FC)に憧れ、母親とスーパーに買い物に行く際にもボールなしでシザース(ボールを跨ぐフェイント)をしているような痛い気な日々は、いつしか当時は関西唯一のJクラブであったG大阪のMF磯貝のようなスルーパスを出す事にも関心が拡がっていった。
小学生ながらもJリーグを拡く観ていたその頃、あるチームが気になっていた。それがJリーグ2年目の第1ステージで優勝したサンフレッチェ広島だった。
Jリーグ開幕4年目までにステージ優勝を含むリーグ制覇を果たしたのは、“サッカーの神様”ジーコの神通力で有力なブラジル選手を揃えながら、Jリーグ開幕以前から一貫したブラジル路線のサッカーが定着していた鹿島アントラーズ。カズとラモス瑠偉(現・FC岐阜監督)を筆頭に、豪華なタレントが華麗な個人技と軽快なパスワークで魅せて勝ち続けたヴェルディ川崎。そして、そのヴェルディとライヴァル関係にあった横浜マリノス。この3チームは全て南米の香りが強いサッカーをしており、鹿島にはジーコやアルシンド、ヴェルディにはビスマルクやぺレイラのようなブラジル人選手が在籍しており、マリノスにはラモン・ディアスやメディナベージョのようなアルゼンチン人選手が揃っていた。
そんな中、サンフレッチェは監督からしてスチュアート・バクスターというイングランド人で、チームにはチェコ・スロバキア代表の主将を務めたMF/FWイワン・ハシェックや、同じチェコ人FWパベル・チェルニーがいた。日本人選手にもFW高木琢也(現・Vファーレン長崎監督)やMF森保一(現・監督)など日本代表選手もいたものの、何かと地味な印象が強かった。カズや浦和レッズのFW福田正博は自らのドリブル突破からゴールを陥れるようなスター性があったが、「アジアの大砲」と呼ばれた高さが唯一最大の武器であった高木は味方の助けがないと輝けないFWだったのが象徴的だったかもしれない。
しかし、サンフレッチェにはJリーグ創世記の他クラブにはなかった組織的なサッカーがバクスター監督によって植え付けられていた。役割分担が的確に整理されていたのだ。高木へのクロスを配給する術はもちろん、高速カウンターでチェルニーや韓国代表FW盧 廷潤が抜け出す形にも機能美が見て取れていた。そして、ハシェックという一見すると地味な点取り屋の存在がクラブのイメージを象徴していた。彼は華麗な個人技や圧巻のスピードを披露するような事はなかったが、知性的なプレーの中に卓越した基礎技術の高さを織り交ぜ、それを決定力に変えてチーム力に還元していた。
森保・風間・高木・ポポヴィッチetc..選手だけでなく優秀な監督も輩出
また、サンフレッチェには現在のトップチームの森保監督を筆頭に、風間八宏(現・川崎フロンターレ)、高木やハシェックなど後に監督となっても手腕を称えられる選手が多かった。昨年のAFCアジアチャンピオンズリーグを制覇したオーストラリアのウエスタン・シドニー・ワンダーランズのトビー・ポポヴィッチ監督もクラブのOBである。予算規模や過密日程を言い訳にしてアジアを制す事が出来ないJクラブとは違い、創設2年目のクラブでアジア制覇を成し遂げたポポヴィッチは森保監督以上かもしれない。ヴィッセル神戸や栃木SCで手堅いチームを作り上げた松田浩氏もしかりだ。これほど優秀な指導者を輩出しているクラブは他にはないだろう。
そんな“ピッチ上の監督”となれる選手が多かったピッチ中央部分とは違って、サイドには役割分担上では特殊技能が要求される。特に元オランダ代表FWピーター・ハウストラの左利き特有のボールタッチに筆者は魅了された。左サイドに張って左足でボールを持つと首の角度が斜め45度に傾きながらも、相手DFとの独特の間合いから突破するドリブル、相手を抜き切らずに上げるセンタリングの軌道に。ハウストラのウイングプレーは現在も日本人には少ないサイド専門の職人芸だった。現在のサンフレッチェにもJリーグでは稀有なサイドのスペシャリストであるMFミハイロ・ミキッチが在籍しているのも何かしらの縁を感じる。ちなみに、ハウストラもまたオランダの名門アヤックス・アムステルダムのアカデミー指導者を経て、フローニンゲンなどで監督を務めている。