32〗Aspmyra Stadion / ボ-デ

マンスヴェルク氏のメンタルトレーニングを受ける以前、主将を任されたウルリク·サルトネス:Ulrik Saltnes【1992年11月10日生】は胃痛に苦しみ引退を真剣に考えていた。副主将パトリック·ベルク:Patrick Berg【1997年11月24日生】は他クラブへの移籍の準備にかかる崩壊寸前。しかしサルトネスは’14年プロデビューを飾ったクラブでこの夏四百試合出場を達成してようとしている。ベルグも同じく’14年に16歳でデビューして来月には三百試合出場は確実。22年にリーグアンのランスから買い戻しているがボデに在籍しているのもマンスヴェルクの存在抜きには語れない。そして前述のハイキンが再生。2020年に創立百四年にして掴んだ悲願の国内タイトル。サルトネスが、自分たちのプレースタイルを現地メディアに対してKAMIKAZE=神風と形容している。「ビョルンとの精神強化がなければ、あのようなプレーは不可能だったと」と語る十四番。
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二十三年間の現役生活を過ごしたハラルド·ベルク:Harald Berg【1941年11月9日生】がノルウェー代表で記録したキャップ数は四十三。オランダのデンハーグでプレーしたのは70年代前半。引退後の’83年には監督としてボデ/グリムトに復帰している。当時ボデ/グリムトのユースに所属していたのが息子のエルヤン。
今でこそかつてのレジェンドの息子達の活躍は珍しくもないが親子三代、代表に選出され同じクラブに執着するケースは滅多にお目にはかかれない。パトリックは祖父、父親から受け継いだDNAとはいえ、三代揃ってスーパーミッドフィールダー。二人の叔父もボデでプレーしている。
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流浪の露人守護神 北極の街で大団円を迎える

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フットボ-ラ-ではないが、父親が著名人で知られるのが前述のハイキン。このロシア人キーパーの経歴が飛び抜けてユニーク。イスラエルのネタニヤ市で生まれ、二年後に家族とともにロシアに移住した。モスクワのトルペドとディナモで小学生年代を過ごし、十五歳の時にロンドンへ。ロシア人オリガルヒがオ-ナ-を務めるクラブのユース·アカデミーへ。その後ポルトガルやスペイン、ロシアのクラブを転々としイスラエルでプロデビューを果たす。
家族が欧州で暮らしていた2007年、ヴネシャグロ銀行の元頭取である父がモスクワ地方の農業企業から土地を不正に奪ったと告発され、国際指名手配リストに載せられた。ロシア当局はスペインに身柄を引き渡すよう要求したのだが、地元裁判所の判決に対する控訴が成功しており、英国で政治亡命を認められていたことで、ロシアへの強制送還を免れる。一方息子は’18年にイスラエルで浪人。ノルウェーに渡るも二部リーグのトライアルで不合格。’19年春に運命のクラブ、ボデに拾われる。
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’24年8月 ハイキンはユニークで偉大な記録を更新している。CL予選のツルヴェナ·ズヴェズダ戦に出場。これはUEFAコンペティションでプレーしたロシア国籍選手では最多。ロシアの皇帝アレクサンドル·モストヴォイ:Aleksandr Vladimirovich Mostovoi【1968年8月22日生】の五十一試合を上回る。ちなみにこのモストヴォイの記録の四十三試合は現在のELの前身UEFAカップ。唯一セルタ·ヴィーゴがCLに参戦した2003-04のCLでアヤックスに勝利した試合の主将がモストヴォイだった。この試合不発のズラタンは途中でベンチに退いている。
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さて冒頭で述べたとおり出国までひと月を切った。シーズンオフにと思うなかれスイスではUEFA女子欧州選手権が開催、スウェーデンもリーグ戦の真っただ中。欧州は365日フットボ-ルの熱気に溢れている。まずはストックホルムではなくコペンハーゲン空港に着陸、マルメからイェーテボリを拠点に週末金曜から月曜に四連戦を駆け抜ける六月の最終週末。現地在住者ではないのでどうしてもクラブチ-ムが密集している地域が自ずと取材対象になる。将来ノルウェーは周ることになってもオスロ近郊が限界。これからはフットボール目的の旅しかしないから、おそらく辺境のボーデを訪れる事は二度とないだろう。
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