「得点を取りたい、ゴール数をもっと増やしたいというのがあって、それを一番実現できるのがこのチームだと思った。魅力的なサッカーをする川崎にあこがれて加入を決断した」
衝撃的、且つ、的確な発露だった。発言の主は、ガンバ大阪から川崎フロンターレへと今季から加入したMF阿部浩之。
攻撃サッカーの表看板を背負っていたはずのG大阪よりも、「魅力的なサッカーをする」「ゴール数をもっと増やしたい」自身の要求を「最も実現できるチーム」は、川崎だった。
阿部は2014年にJ1復帰元年となったG大阪で、「史上初のJ1昇格初年度の3冠」という大偉業に大きく貢献した攻撃的MFだった。そんな阿部の言葉だからこそ、その言葉の意味と深さがあった。
J2降格・J1昇格・3冠を経験~波乱万丈なデビューからの3年間
2012年に関西学院大学からG大阪に加入。プロキャリアをスタートさせた阿部は、J1リーグ開幕戦でデビューを果たすなど、1年目からリーグ18試合に出場して2得点。AFCチャンピオンズリーグでも得点を挙げた。
しかし、当時のG大阪は前年まで10年間指揮を執った西野朗監督が退任。2005年のJ1リーグ優勝を機に優勝争いの常連となったチームが、近年稀に見る不安定な時期を過ごしていた。そして、阿部個人の順調なデビューイヤーは、チームにとってはまさかのJ2降格という最悪なシーズンとなった。
ただ、阿部にとってはこれが功を奏した。2013年シーズンにクラブ史上初のJ2を戦う事になったG大阪は若手選手がプレーする機会が多くなり、阿部は30試合(先発14)の出場で5得点を記録。先発出場も増え、J2優勝にも貢献できた達成感のあるシーズンだった。
そして2014年、J1へ昇格しながらも開幕直前の怪我でエースFW宇佐美貴史(現・アウクスブルク/ドイツ)を欠いたチームは序盤から大苦戦。それでも阿部だけはセレッソ大阪との敵地での“大阪ダービー”で豪快なミドルシュートを左右の足から1本ずつ決めて2得点するなど絶好調。
その後、FIFAブラジルW杯による中断期間前に復帰した宇佐美、その中断期間に緊急補強したブラジル人FWパトリックによる“J最強2トップ”がハマったG大阪。前年のJ2時代から指揮を執る長谷川健太監督による堅守速攻スタイルを完成させ、彼等は中断期間明けに連勝街道を進んだ。
また、このシーズンは天皇杯を元日に行わずにJ1リーグ最終節の翌週に開催した事もあり、その勢いを味方につけたG大阪はJ1リーグとナビスコカップ、天皇杯の3冠をJ1昇格初年度に達成。3冠は2000年の鹿島以来Jリーグ史上2度目、昇格初年度では初の偉業だった。
G大阪2列目サイドの超過労働と特殊事情
阿部にとってはJ2降格、J1昇格、3冠とJリーグにまつわる悲喜こもごもを全て体験したような波乱万丈なプロ入り後の3年間だった。
阿部はその3冠を獲得した2014年シーズンに初めてレギュラーに定着。30試合(先発27)に出場。“J最強2トップ”に続くチーム3位の7得点を挙げ、3冠獲得の立役者となり、「影のMVP」と称賛された。
<4-4-2>や<4-2-3-1>のシステムを採用するG大阪にあって、阿部は主に2列目の右サイドを務めた。G大阪の2列目サイドの役割は多岐に渡る。運動量を求められる“超過労動”を強いられるのだ。
長谷川監督のチーム作りは清水エスパルス時代から守備組織の構築が徹底されている。特徴的なのはセンターバックの2人がカヴァーリングでサイドに出ないで常に中央に構える事。さらに4バックの4人がぺナルティ・ボックスの幅で守備ブロックを作るポジショニングが約束事になっており、相手のサイド攻撃やクロスを上げる選手にはサイドバックではなく、阿部ら2列目のサイドMFがプレスバックして対応する事になっているのだ。
さらにボランチの今野泰幸は本能的にボールを奪いに前に突っ込むため、自陣のバイタルエリアにはスペースが出来てしまう。阿部はそのカヴァー役も担った。G大阪はサンフレッチェ広島や浦和レッズなどの相手が3バックのチームの場合は、中盤をダイヤモンド型にするトリプルボランチを組んでいた。その際、阿部は右側のボランチを務めたのだが、普段から今野のカヴァー役を担っていた阿部はスムーズにこなせる要因ともなった。
頻繁に最終ラインまで吸収されるタスクをこなしながら、チーム3位の7得点を挙げた阿部。『サッカーの母国』イングランドでは攻撃でも守備でも両方のゴール前に関わる中央のMFを『ボックス・トゥ・ボックスMF』と呼ぶが、阿部はサイドMFながら『ボックス・トゥ・ボックスMF』だった。