山あり谷ありどころか谷ばかりのキャリア
しかし、「R・バッジョの大会」と言われたアメリカW杯後、バッジョが所属するユヴェントスにはマルチェロ・リッピが新監督に就任。このシーズンにバッジョが負傷した時に台頭したのが、彼より7歳若いアレッサンドロ・デルピエロ。実はバッジョにとって自身初のリーグ優勝はこのシーズンに達成したのですが、リーグ戦の出場は僅か17試合(8得点)止まり。コパ・イタリアとの2冠となったのものの、その決勝には出場しておらず、UEFAカップ決勝でも先発から外されてチームは3冠を達成できず。シーズン終了後には新たなスター=デルピエロの存在もあって、R・バッジョは追い出されるように移籍。僅か1年前にはW杯で世界中の誰よりも輝いていた選手が、初のリーグ優勝を遂げながら放出要員になるとは・・・。
1995年の夏、移籍先となったのはACミラン。当時のミランはR・バッジョがユヴェントス在籍時の1992年から1994年までリーグ3連覇。さらに3年連続で欧州チャンピオンズリーグ決勝進出。同大会では1988年から1995年までの7シーズンで5度の決勝進出、3度の優勝を含む、未だに破られていない最後に欧州チャンピオンズリーグ(当時はチャンピオンズカップ)の連覇を達成した黄金時代にあったチームです。
ここでも移籍初年度にリーグ優勝し、バッジョ個人としては前年に続くタイトル獲得となりましたが、結果最優先主義の「鉄の心」を持つファビオ・カペッロ監督からは主力として扱われず。前年と同じく個人的には不完全燃焼のタイトル獲得となりました。 翌年にカペッロ監督がレアル・マドリーに引き抜かれて去ったものの、新監督のオスカル・タバレス(現・ウルグアイ代表監督)がシーズン早々に解任されると、後任にはなんと・・・EURO96でグループリーグ敗退後にイタリア代表監督を退任した「天敵」サッキが復帰。
サッキは1987年にACミランの監督に就任し、その後欧州全域に広がった新戦術ゾーンプレスを完成させ、就任1年目にリーグ優勝。さらに欧州チャンピオンズカップ(現在のチャンピオンズリーグ)を1989,1990年と連覇した名将。また、当時のミランにはイタリア代表とは違い、バッジョ以外にもリベリア代表FWジョージ・ウェアやイタリア代表FWマルコ・シモーネ、旧ユーゴスラビア代表FWデヤン・サビチャビッチが在籍しており、激しいポジション争いや走力を必要とする戦術的理由、幾度にも渡る個人的確執により、R・バッジョは完全な戦力外扱いになりました。
それでもチームの低迷は続き、近年では最低のリーグ11位に終わった1996-1997シーズンのACミラン。復帰したサッキ監督も退任し、R・バッジョにもチャンスか?と思われたものの、その後任には1年前に退任したカペッロが復帰。カペッロはレアル・マドリーで見事に就任初年度でリーグ優勝するも、守備的なサッカーの内容を問われて1年で解任され、低迷するACミランに僅か1年で復帰。シーズン開幕前にカペッロからも戦力外を言い渡されたR・バッジョは移籍先を探すことになりました。
「都落ち」も、ボローニャで完全復活~自己最多の22得点でフランスW杯出場
1997年の夏、直近の3シーズンでリーグ優勝2度を経験しながら、自身は主力としてプレー出来ていなかったバッジョ。翌年に開催されるフランスW杯でのイタリア代表復帰を狙うべく出場機会を優先し、地方クラブと言えるボローニャへ加入。「都落ち」と揶揄されながら、ボローニャでこれまでの自己最多となる22ゴールを記録したバッジョはイタリア代表にも復帰。
W杯フランス大会の初戦ではチリ相手にいきなり絶妙なアシストを記録し、終了間際には明らかに相手のハンドを狙ったボールを蹴ってPKを獲得。このPKを自ら決めて、前回大会決勝の悪夢を払拭。オーストリア戦でもゴールを記録したR・バッジョは再びビッグクラブからのオファーが殺到しました。余談ですが、この明らかにハンドを狙ったプレーがルールの微改正にもなりました。
31歳となった1998年の夏、バッジョはユヴェントス、ACミランと並ぶイタリアの3大ビッグクラブであるインテル・ミラノに加入。バッジョのご実家は代々インテルのサポーターの家系だったため、ご家族が望む移籍となりました。しかし、加入1年目は年齢的な部分もあって負傷離脱を繰り返し、チームもエースのブラジル代表FWロナウドも大怪我を負って低迷。4人の監督がベンチに座ったクレイジーなシーズンは8位で終了。
そして、1999年の夏に現れたインテル新監督は・・・ユヴェントスから移籍するに至った理由であったマルチェロ・リッピ。サッキ、カペッロに続き、リッピとも再会したR・バッジョは再び戦力外に。シーズン終了後、リーグ同率4位となったパルマとの来季CL出場権をかけたプレーオフで途中出場から2ゴールを記録。「天敵」リッピの首を救うプレゼントを最後にインテルを退団しました。
「理想的な監督」マッツォーネと出会い、自身のサッカー哲学を貫いたバッジョ
バッジョが無所属のまま始まった翌シーズン。2000年の9月に発表されたのは、セリエAへ昇格してきたブレシア・カルチョへの加入。そして、ここでバッジョが「理想的な監督」と評するカルロ・マッツオーネ監督の下で完全復活。マッツオーネの下では大成する前のイタリア代表MFアンドレア・ピルロもインテルからのレンタルで加入して再生。さらに日本代表MF中田英寿もボローニャ監督時代の2005年に再生させています。つまり、マッツオーネは“ファンタジスタ”と呼ばれるような創造力豊かな選手に自由を与えて活躍させるのに長けている指揮官。