ここ4シーズンで3度目のJ1リーグを制したサンフレッチェ広島。現在のJリーグには“広島時代”が到来しているかのような結果を残し続けている。
しかし、彼等にはクラブの経済危機やJ2への降格が複数回あるなど、その歴史は苦難の連続だった。
ただし、サンフレッチェには他クラブと一線を画するビジョンが継続しているようにも感じる。そして、その歴史を知る事は、Jリーグの新たな楽しみや奥深さ、愛おしさを感じる事に繋がるはずだ。
攻撃サッカーの開拓者が引き抜かれて頓挫
Jリーグ創設当初のブームを謳歌していたサンフレッチェ。ブラジル人やアルゼンチン人の選手や指導者によって強化に勤しむ他クラブとは違って、英国人のスチュアート・バクスター監督による欧州式の組織サッカーを浸透させ、1994年の第1ステージで優勝するなど結果を残した。
しかし、Jリーグブームが過ぎ去った1997年辺りからクラブの経営危機が表面化したこともあり、日本代表クラスの主力選手が軒並み退団していき、一気に2部リーグへの降格の危機に瀕するチームになってしまった。
ただ、1997年~2000年まで指揮した英国人指揮官=エディ・トムソンによる現実的なサッカーの導入により、J1でのステータスは維持していた。そして、その裏ではクラブが下部組織を充実させる事で、クラブとしての体力=“クラブ力”を養っていた。
そして、ロシアの名将=ヴァレリー・二ポムニシ監督が指揮を執った2001年シーズンには現在に至る“広島スタイル”の原型が作られた。それも、現在も主力としてプレーするMF森崎和幸と、日本代表でも大きく貢献する事になるDF駒野友一(現・FC東京)という10代の下部組織出身2選手をレギュラーに定着させた上で、1994年のステージ優勝以来では最高位となる第2ステージ3位という結果をもたらしたのだ。
しかし、たった1年でその攻撃サッカーの開拓者であるヴァレリー監督が中国の山東魯能に引き抜かれ、このサッカーはお蔵入りどころか、サンフレッチェはこのシーズンにクラブ史上初のJ2リーグへの降格を経験してしまう。クラブ主導で改革がなされたように見えても、実際は表面上(現場)だけだったのかもしれない。
「監督が代わるだけで変化するのがスタイルなのか?」そんな問いが日本サッカーを支える、愛する人々からもよく聞かれる。現在のJリーグにも西野朗監督が退任してから攻撃サッカーの看板を下ろして現実的なサッカーをするようになったガンバ大阪、その逆の移行を展開している浦和レッズ、などJリーグの強豪クラブでさえ監督が代わるだけでスタイルが変化するチームは多い。歴史が浅いJリーグではその傾向の方が自然なのかもしれない。サンフレッチェにガンバ、レッズ、3クラブともJ2降格を経験してから黄金期を迎えるサイクルを持ち、昨年末のチャンピオンシップに出場するという“縁”があるのも面白い共通点だ。
ただ、日本代表選手やJリーグで実績を残した外国籍選手を獲得していくガンバやレッズとは違い、サンフレッチェはリーグ優勝しても、連覇しても選手が流出していく側のクラブだ。また、監督が代われば変化するのは本当の意味でのスタイルなのか?そういうサッカーに置いての重要な本質を定義する上でも、サンフレッチェの歴史は貴重なテキストになるのではないか?
問われる”広島スタイル”の日本人的解釈
中国の山東魯能に引き抜かれ、ヴァレリー監督が1年で退任した2002年シーズン。後任のロシア人指揮官=ガジ・ガジエフ監督はロシア国内ではロシアリーグ最優秀監督賞を受賞するなど、ヴァレリーと同クラスの名将だった。ただ、彼はヴァレリーが植えつけた攻撃サッカーの流れをぶち壊した。攻撃サッカーというよりも、ヴァレリーがもたらしたパスワークや高い位置からのプレッシングは選手間の連携や組織力から生まれたモノだった。だが、ガジエフは個人練習に時間を費やしたため、武器であったはずの組織力がないがしろになった。監督の国籍が同じでも志向するスタイルが違う。それもそうだが、それ以上にコミュニケーション力にガジエフは欠けていた。