また、ブルガリアには“ドリームチーム”と言われたヨハン・クライフが監督をしていたバルセロナで王様として君臨していたフリストフ・ストイチコフがゲームメイクも担当しながら大会得点王になる大活躍ぶりを見せていました。個人として挙げれば、ベスト8で敗退したとはいえ、ルーマニア代表MFゲオルゲ・ハジは“大会NO1の背番号10”と呼ばれる活躍を見せていました。
僕はそれらをNHKなどで放送されていたテレビ中継を、家族が寝ている中でほぼ毎日早朝に起き、食い入るように観ていました。
そして、その中で眩しく映ったのは、やはり彼でした。
“イタリアの至宝”ことイタリア代表FW10ロベルト・バッジョ。このポニーテール姿もインパクト抜群でした。そんな彼を擁するイタリアはグループリーグでは自身が肉離れの負傷を引き摺って精彩を欠き無得点。チームもグループリーグでは3位で何とか突破できたという程度。(24ヶ国が6グループに分かれるため、各組の上位2ヶ国+3位の成績上位4ヶ国が突破できる条件。)彼自身は退場者が出た試合では交代要員にされるほどの始末でした。
しかし、彼が決勝トーナメントに入ってからの3試合で5ゴールと大爆発。しかも、どれもこれもが難易度の高い且つ印象的なゴールばかりで、3試合連続の決勝ゴールも記録。最後は決勝戦となったブラジル戦で、5番手のPKキッカーとして大きく上に外し、“悲劇のヒーロー”となってしまったのですが、優勝したブラジルにも、番狂わせを演じ続けてきた伏兵のエースやGKよりも、どう見てもこの大会の顔となったはバッジョでした。そして、イタリアのファンとなりました。また、夏休みの自由研究は欧州の地図を模造紙で書き、各国の人口や特産物、気候を書いた上でサッカー選手の名前を書くというような“欧州見取り図”なる研究発表をしたのでした。
時を同じくして、日本からそのイタリアへ飛び立った日本人選手がいました。そう“キング・カズ”こと日本代表FW三浦知良。カズさんがジェノアへ移籍したタイミングで、僕の実家のマンションにはケーブルテレビの無料放送があり、当時の世界最強リーグと誰もが認めるイタリア1部リーグ”セリエA”の放送が観れる機会がありました。その時のセリエAで好きだったチームがパルマでした。
パルマにはアメリカW杯で活躍した“もう1人のバッジョ”と言われたイタリア代表MFディノ・バッジョがいたのですが、何よりも魅力的だったのがコロンビア代表FWファウスティーノ・アスプリージャとイタリア代表では“ロベルト・バッジョの影”となっていたFWジャンフランコ・ゾラの2トップでした。僕は小学生ながら2トップの補完性として、長身のポストプレーヤーとテクニシャンで組むなどは頭で理解していたものの、この2人は自由自在でポストプレーというより2人ともドリブルが多くて、そのドリブルでも縦や横と方向も自在でフェイントも多く、ヒールキックなどでのパス交換を2人だけでこなし、手数の多いイタリアの屈強な守備網を突破していく2人に魅了されました。また、ゾラとは2009年に僕がプレミアリーグを現地観戦した際に、東ロンドンに拠点を置くウエストハムの監督であった彼に遭う事もでき、「あなたモデルのシューズを使い続けていました」(欧州ではスパイクとは呼ばない)と言うと、ハグしてもらえました。
これはその時にもらったサインです。まだアスプリージャには遭遇した事はありませんが・・・・、アスプリージャを生で観た事はあります!!それがガンバとの話にも関わってくるのです。
次回は先頃、北の大地への移籍を決めたあのガンバユース出身の大物MFとの出会いを綴りながら、ガンバ大阪や僕の中学生時代のプレーについて綴りたいと思います。