Foot ball Drunker〔158〕visiting 『Estadio Vicente Calderón』 マドリッド / スペイン

同社は2017年まではオランダ·ハーグのスタジアムのネーミングライツも所有していた。

ヘスス·スアレス:Jesús Súarez【1959年5月31日生】氏の批評が翻訳された書籍の一文に「その情熱を肌に感じられたら結果はどうなろうと喝采を送る。類似例を探すならアルゼンチンのスタジアムに近いだろうか」とある。


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アルゼンチンに行ったこともなければ行きたいとも思わないが、結果重視のベルナベウとは確かに雰囲気は異なるかもしれない。

2009年のU17ワ-ルド杯ナイジェリア大会。スペインはコロンビアを下し銅メダルを獲得。当時のA代表は正真正銘の無敵艦隊。しかし次の世代も才能が芽吹いており、特に中盤には2012年ロンドン五輪で日本と対戦したあの二人も。

2012年9月23日がヤシン·ブヌのスペインデビュー戦。レアルとのライバル対決はもちろん二部。翌13年11月ビジャ·レアルとのアウェ-戦にディエゴ·シメオネ:Diego Simeone【1970年4月28日生】はブヌと当時17歳のリュカ·エルナンデス:Lucas Hernández【1996年2月14日生】を帯同させている。翌年4月のレアルソシエダBとの試合ではブヌとリュカが初めて同じピッチ上でプレーしている。この試合リュカ痛恨のハンドによるPK献上、ブヌも止められず0-1の敗北。バイエルンからパリ·サンジェルマンに移籍したフランス代表も小学生年代からアトレティコ·マドリーで成長を重ねている。

カタール大会豪州戦で右膝前十字靭帯断裂の不運に見舞われたリュカ。この歴史的な大舞台で両者が再会するドラマが流れてしまったのは筆者にとっては遺憾千万。


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さて2012年ロンドン男子サッカーを振り返る。日本の初戦の相手は2011年のU21欧州選手権デンマ-ク大会王者。ちなみにスペインは2013年のイスラエル大会も連覇している。中盤には大会終了後ビルバオからバイエルンに移籍したJavi Martínez【1988年9月2日生】と17歳以下の世界大会でインパクトを残した二人。イスコ:Isco【1992年4月21日生】とコケ:Koke【1992年1月8日生】。更にオーバーエイジ枠でファン·マタマタ:Juan Mata【1988年4月28日生】と豪華な顔ぶれを揃えたスペイン相手に初戦日本がジャイアントキリングをやってのけた。
一度なら兎も角、二度目となれば奇跡とは言わない。この試合で負傷した酒井宏樹:Hiroki Saka【1990年4月12日生】は欠きながらモロッコ戦も1-0で勝利。決勝トーナメントに駒を進めた関塚ジャパン。実はこの試合のベンチには当時21歳のブヌの姿もあった。
コケは、2000年にアトレティコ·マドリーのユ-スアカデミ-の門をくぐり、ピッチに立った回数は700を上回りシメオネ監督も絶大な信頼を寄せる。後継者バリオスにもロールモデルとしなる最高のプレーヤー。


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FIFAワ-ルド杯2030年大会にイベリア半島の二か国とモロッコによる共催が提案されたものの肝心の両国政府の関係はかなり微妙。西サハラを植民地化したいモロッコと独立のために立ち上がったポリサリオ戦線の睨み合いと小競り合い。事の起こりは’21年4月のポリサリオ戦線リーダーの入国を認め治療したスペインの対応。怒ったモロッコはアフリカから不法移民の防波堤を放棄する報復。
スペイン国内で暮らすモロッコ市民は約300万人を超えるはず。’92年に結んだ第三国からの違法入国引き渡し協も効果は薄かったとではないだろうか。
2005年の法改正も裏目となり、スペイン国内で暮らす不法移民の増加がとどまる気配はない。モロッコの脅しに腰が引けた政府の姿がフットボールに影響を及ぼしたのだろうか。

何れにしても、日本代表が消えてもパリ五輪男子サッカ-はここからが本番。スペイン対モロッコの隣国対決を見逃すわけにはいかない。[第158話了]