九月の欧州予選 無敗で本命と対抗が激突
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八月も残すところ一週間。晩夏から初秋へと変わろうとも、おそらく日中のこの厳しい暑さがおいそれと和らぐはずも無い。開幕した欧州各国リーグの熱気も冷めやらぬ九月は来年のFIFAワールドカップの予選が本格的に始まる。既に三月から開戦したグループもあり、散付きは扨措、ここまでの結果を踏まえ最注目となるのは九月九日。日本では重陽の節句を祝うこの日ボスニア·ヘルツェゴビナ対オーストリアが行なわれる。初戦敵地でライバルと目されるルーマニアから白星を奪取しての好発進のボスニア·ヘルツェゴビナ。格下にも取り零すことなくここまで三連勝。それを二試合しか消化していないオーストリアが無傷で追う展開。
下写真で主将章を巻いているのはエディン·ジェコ:Edin Dzeko【1986年3月17日生】。以前ウィーンで両国代表の試合を撮影したのは2018年11月。この試合でアウェーチームを率いたのはロベルト·プロシネツキ:Robert Prosinecki【1969年1月12日】監督。現役時代はザグレブ、ポーツマスで元日本代表のレジェンド二人とプレーした“バルカンの黄金銃”はモンテネグロ代表監督として今回の予選を戦っている。
サラエボ事件が起きたオ-ストラリア
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この試合の撮影前、頭に浮かんだのが中学の授業で習ったサラエボ事件。現在のボスニア·ヘルツェゴビナの首都でオーストリア大公夫妻が、大セルビア主義を崇拝するセルビア人青年に暗殺された。切っ掛けは六年前にセルビア人が多数を占めるボスニア·ヘルツェゴビナのオーストリアへの併合。反オーストリア(ゲルマン)感情の高まりから生まれた惨劇。当時の欧州五大国は英.仏.独.露.墺でありドイツは当然オーストリアを後押し、ロシアがはセルビアを支援した。そもそも二年前にセルビアがオスマン帝国に対抗する為、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロとの同盟を結べたのもロシアあっての流れ。仏露の同盟もあって英仏がドイツに宣戦布告。第一次大戦の引き鉄となったのはあまりにも有名。ちなみにジェコはサラエボの出身。今季はトルコから慣れ親しんだイタリアへと戻り紫のウェアに袖を通している。
デルビー·デッラ·カピターレの記憶
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ASローマ時代にも何試合か取材している中で印象深いのは’17年コッパ·イタリア準決勝オリンピコでの二連戦。ラツィオとのデルビー第二戦は四万三千七百人の大観衆でスタンドが埋まった。セルゲイ·ミリンコヴィッチ=サヴィッチ:Sergej Milinković-Savić【1995年2月27日生】が二試合連続ゴールにオマケのアシストもつける活躍。二試合フル出場したジェコは不発に終わり、合計スコア3−4でラツィオがファイナルへと駒を進める。ミリンコヴィッチ=サヴィッチはこの年セルビア代表に初招集されると、翌年のFIFAワールドカップ·ロシア大会では全三試合フル出場を果たす。世界各国各地域でご近所のライバルが火花を散らすダービーマッチ。欧州の首都で最高最凶ダービーとして知られるローマの決闘デルビー·デッラ·カピターレ。その迫力は身を持って知ったが激しい憎悪が交差する理由は極右の独裁者ベニート·ムッソリーニ:Benito Mussolini【1883年7月29日生-1945年4月28日没】にある。ファシズムの創設者が首都近郊のクラブを併合しようとした際、唯一抗った老舗クラブがラツィオだった。そしてこのデルビーに勝るとも劣らず恐れられ、いつの日か体験したいと思っているのがセルビアの首都対決ベオグラズキ·デルビである。
第56話はフドバルスキ·クルブ·パルティザンの本拠地。1949年の完成以来、29,775席のスタディオン·パルティザーナで試合を行ってきた。浅野拓磨:Takuma Asano【1994年11月10日生】の給料未払問題により日本での悪名を高めたがその浅野在籍時(19年)に訪問している。スタッフの方達の対応も親切で、全く期待していなかったプレスホスピタリティ=食事もこんな感じ。国内リーグ戦ではあり得ないUEFAコンペティションならではの好待遇ではなかろうか。ちなみにセルビアの食事は、肉に始まり肉に終わる。肉を焼いたグリル料理が多く豚·羊·鶏と何の肉でもよく食べる。海に面していないのだからそれも当然。個人的には好印象を抱いていたクラブチームだけに件の件は残念でならない。
現場に復帰したバルカンの大型ストライカ-
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このスタジアムは選手控室がメインスタンド側ベンチの反対側にあるため、選手とスタッフはピッチを横切り入場してベンチに腰掛けることになる。待ち構えていたところに186cmの巨漢が登場。序盤十六試合連続ノーゴールでも信頼は変らず、スタメンに起用し続けてくれた恩師にこの試合でも浅野は結果を出して報いた。サボ·ミロシェビッチ:Savo Milošević【1973年9月2日生】はスルプスカ共和国のビイェリナ出身。スルプスカはボスニア·ヘルツェゴビナの国土の半分を占めセルビア人が暮らしている。’92年にパルチザン·ベオグラードのユースからトップデビュー。サラゴサ、エスパニョール、セルタ、オサスナとキャリアの大半をスペインで過ごしているのだが、 日本のサッカーファンにはパルマのサボが記憶に残っている。FIFAワールド杯日韓大会前の重要な2021-22シーズン。パルマから背番号十を与えられ熱烈な歓迎を受けたのは中田英寿:Hidetoshi Nakata 【1977年1月22日生】氏。2021年9月8日セリエA第2節はホーム開幕戦。トップ下=司令塔に新加入中田とツートップはアズーリデビュー(モロッコとの親善試合)直後のマルコ·ディ·ヴァイオ:Marco Di Vaio【1976年7月15日生】 もう一枚が前年のUEFA欧州選手権では四試合五ゴールで得点王に輝いたミロシェビッチ。この攻撃の「三本の矢」は、相手のインテルと比べても見劣りしない。’95年のユーゴスラビア代表デビューから、セルビア·モンテネグロ時代を経て、’08年にセルビア代表のユニフォームを脱ぐまで刻んだキャップ数は百二。この試合先制されたパルマは十三分後、ディ·ヴァイオからミロシェビッチと繋ぎ同点。その後双方が一点づつを加えてのドロー決着となった。このシーズンのパルマは、猫の目が如く指揮官を変えまくり、’02年サラゴサへと貸し出されると結局イタリアには戻らず。引退後はセルビア協会の副会長を務めた大物がパルチザンで現場復帰したのが’19年。この日は監督の他にもうひとり、јапанац=ヤパーナッツを知る男ゾラン·トシッチ:Zoran Tošić【1987年4月28日生】もスタメン。2010年8月1日、春開幕のロシアプレミアリーグ15節。マンチェスター·ユナイテッドから加入したセルビア人がスパルタク·モスクワ戦では本田圭佑:Keisuke Honda【1986年6月13日生】と両サイドハーフに。続く14日アンジ戦ではトシッチのロシア初得点を本田がアシスト。’13年12月に本田がミランへと旅立まで多くのタイトルを分かち合った僚友。ザックジャパンの東欧遠征の際は敵味方に別れで対戦もしている。試合は2-0でセルビアが勝利。